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そこには私の至純な歳月があったのだから~映画『スープとイデオロギー』が描く「済州島四・三事件」をめぐって2【対談】金時鐘×ヤン ヨンヒ

金時鐘(詩人)

ヤン ヨンヒ(映画監督)

(構成・文/木村元彦)

 でも、歌を唄うシーンでお母さんの隣にヨンヒさんがいるでしょう。この映画のいいところは、監督自身が自分をさらしているところです。自分の身をカメラの前にさらさないで、お母さんだけを撮っていたら、観る人によっては、「このお母さんは心を病んでいるのかな」とか感じてしまうかもしれんけど、それをカバーしているね。
  お母さんの一番純粋な時期に、自分のすべてを出したというのが総連の活動なんだ。その純粋さを、まみれさせたくないって気持ちがあった。ただ単に北を批判したくないという気持ちだけじゃないんだ。僕は、お母さんの生き方からクロポトキンの言葉を思い出すな。
   クロポトキンは、旧帝ロシアでは公爵という一番位の高い貴族です。にもかかわらず、無政府主義を唱え、投獄された。そのあと、脱出してヨーロッパ各地を40年近く転々として、無政府主義活動を続けた。やがて、自分の祖国のロシアに革命が起こる。1917年の十月社会主義革命になって帰国したんだけど、革命政府からはアナーキストとして受け入れられなかった。自分の願った国になったはずなのに、その願った国から外された。そのことをクロポトキンは書いているんだよね。彼の日記の一節だったと記憶しているけれど「いいじゃないか。そこには私の至純な歳月があったのだから」とあった。
   僕は長らく組織から批判を受けて行き場もなく、大変な難渋を経たけど、いつも耐えられたのはこの言葉のおかげでした。お母さんの気持ちも、この言葉に近いんじゃないかな。だからお母さんを恨まないでほしい。

ヤン 自分の人生を否定しては生きていけないですよね。オモニは、息子たちを北朝鮮に行かせる前までは商売をしていたんですよ。最初は、洋裁で生計を立てるためにミシンを踏んでいたんですが、そのあと食堂の仕事に就きました。大阪の肥後橋のビルの下で、人に任されてですけれども日本人のホワイトカラーのお客さんばっかりのレストランをやっていました。

 そのお母さんが仕事をしていた店の「レストラン・サガ」、実は私が作ったんだ。

ヤン えっ! 時鐘先生が! とてもいいお店でした。子どもの頃、オモニと一緒にその店に行くとオモニが「ここではオモニじゃなくて〝お母さん〟と呼びや」って言うんです。私のこともヨンヒじゃなくて、エイコ。お店のお客さんが、日本のサラリーマンばっかりだったからでしょうね。なぜか、〝エイちゃん〟って呼ばれて(笑)。とても懐かしいです。あのときまでが、うちの家族が一番幸せだったときです。

 映画『スープとイデオロギー』より

「帰国事業」で起こったこと

 ヨンヒさんは大阪の朝鮮高校出身でしたね?

ヤン ええ、そうです。

 当時の校長は韓鶴洙(ハン ハクス)だった? そのあとか?

ヤン そのあとです。

 韓鶴洙先生は朝鮮高校の初代校長だったんだけど、民族教育にも熱心で本当に生徒に慕われたいい先生だった。その先生に60年代の末に、北朝鮮から「指名帰国」(名指しで帰国させられること)が来た。帰国船に乗るため新潟へ向かうまで、夫婦で僕の家の2階にいたんだ。僕は必死に、帰るなと止めたんだよ。でも、韓先生は「私は祖国を信じる」と言って行っちゃった。帰国当初は特別扱い受けたようだけど、そのあと韓夫妻は強制収容所送り。向こうの政治闘争に敗れて粛清されたんだ……。先に北に渡っていたこども2人、娘1人、息子1人がいたんだけど、娘のほうは、日中に路上から連れていかれたまま、行方不明。息子から「日本の金で20万あったら結婚ができそうです。住まいもなんとかできそうです。姉さんがどこか遠いとこへ行かれまして、いま連絡がすぐは取れません。お父さんお母さんも行方がわからないままです」という手紙が僕のところへ来た。僕はすぐにお金を送ったんだけど、それがスパイから金をもらったということになって彼まで……。結婚式を控えていたのにね。あとから、彼が死んだことは克明にわかった。

ヤン 実は母の妹、私のイモ(叔母さん)も帰国しまして、そのあと結婚した相手が収容所に送られたんですね。少しでも気を緩めると、北に家族が引っ張っていかれるという状況から、うちのアボジとオモニが親戚中の要(かなめ)のようになった時期がありました。アボジの兄弟、アボジの男兄弟の子どもたち、みんな北に行っていますし、それは大変だったと思います。

 ヨンヒさんも私もつまるところ、大変なテーマを預かったままだよ、本当に。
   在日同胞の体面にかかわることは、日本語では表に出せないと思ってきたんだけどね。もう時代も変わったから、事実は事実で残そうと思って、僕のいま出ているコレクション(『金時鐘コレクション』藤原書店)の巻末のインタビューなんかでは話しているんだけどね。
  映画に話を戻せば、今後の宿題として、ヨンヒさんに注文したいのは、できれば朝鮮総連の批判一つぐらいは映画の中でやってほしい。

ヤン それは実は前の作品、(『ディア・ピョンヤン』(2005年)、『愛しきソナ』(2009年)、『かぞくのくに』(2012年))でやっているんです。

 そうか。失礼した。前作とのつながりもあるわけやな。それは観ないとあかんな。
   北も北だけど、在日朝鮮人の権益を守る組織といわれた朝鮮総連が「帰国事業」の旗振りをしたんだよね。北は〝地上の楽園〟だといってね。北に行ってすぐ実情がみなわかって、行方不明者がだんだん出てくるのに、総連は北に問い合わせひとつしなかった。日本で生きている私が生涯根に持つのは、そういうことなんだ。1959年12月に帰国第1船が出るんだが、(朝鮮戦争の)休戦協定が成り立つのが53年7月。丸5年経ったかどうかの国が、〝地上の楽園〟たるはずがないだろうが。一望千里焼け野原だしね。そんな旗振りをした朝鮮総連をヨンヒさんも許しちゃならんよ。

ヤン 今回の映画では、金日成と金正日の肖像画を外したシーンに少し込めているかもしれません。何であのシーンを入れたんやって言う人もいたんですよ。

 あれはいいシーンだったね。監督の意志がよく出ている場面だった。
  いま日本で生きる在日の世代は、第5世代の人たちが子を育てる時代に入った。それでいてなお、私たちはいまもって〝自前の〟朝鮮人になりきれてないところがあってね。民団(在日本大韓民国民団)と総連の関係に見るような、対立する相手と関係性を切るんじゃなくて、普段、密接なごく習慣的つながりのなかで漫然とすごしてきている状態から切れていかないと、新しい関係性が作れない。切れて、またつながる必要がある。ヨンヒさんは、創作をする立場だからこれからもそういう判断を迫られるときがくるだろうね。まぁ、難しい作品を4つも作って、大変ご苦労やった。

その地の災いはその地の神が鎮める

 ヨンヒさん、いつかまた済州島の風景を撮ることがあったら、無縁塚の「ホッミョ」を撮ってほしい。漢字で書くと「虚墓」。それを「ホッミョ」という。「ホッ」といったら中身のないもの、「ミョ」というのは墓のことなんだ。遺体が探せんので、虐殺された場所の石を遺体の代わりに埋めた墓があるんで、そこを撮ってほしかった。

ヤン 次に済州島行くときは撮ろうと思います。

著者情報

詩人

金時鐘

キム・シジョン

1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父のもとに一時預けられる。済州島で育つ。48年の「済州島四・三事件」に関わり来日。50年頃から日本語で詩作を始める。在日朝鮮人団体の文化関係の活動に携わるが、運動の路線転換以降、組織批判を受け、組織運動から離れる。兵庫県立湊川高等学校教員(1973-88年)。大阪文学学校特別アドバイザー。詩人。主な作品として、詩集に『金時鐘詩集選 境界の詩――猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005)『四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010、第41回高見順賞)『背中の地図』(河出書房新社、2018)他。評論集に『「在日」のはざまで』(立風書房、1986、第40回毎日出版文化賞。平凡社ライブラリー、2001)他。エッセーに『草むらの時――小文集』(海風社、1997)『わが生と詩』(岩波書店、2004)『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店、2015、大佛次郎賞)他多数。現在、藤原書店より『金時鐘コレクション』(全12巻)刊行中。金石範氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社、2015年 増補版)において四・三事件を体験した記憶を語っている。

映画監督

ヤン ヨンヒ

やんよんひ/Yang Yonghi

 大阪出身のコリアン2世。父親を主人公に自身の家族を描いたドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』(05)は、ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭・審査員特別賞ほか、各国の映画祭で多数受賞し、日本と韓国で劇場公開。自身の姪の成長を描いた『愛しきソナ』(09)は、ベルリン国際映画祭、Hot Docs カナディアン国際ドキュメンタリー映画祭ほか多くの招待を受け、日本と韓国で劇場公開。脚本・監督した初の劇映画『かぞくのくに』(2012)はベルリン国際映画祭・国際アートシアター連盟賞(CICAE賞)ほか海外映画祭で多数受賞。さらに、読売文学賞戯曲・シナリオ賞等、国内でも多くの賞に輝いた。著書にノンフィクション『兄 かぞくのくに』(12/小学館)、小説『朝鮮大学校物語』(18/KADOKAWA)ほか。

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