第5回 19世紀の少年ジャンプ?
樫原辰郎(映画監督/脚本家/評論家)
科学についてもっと深く知りたい!というモチベーションがあったからこそ、ヒトは望遠鏡や顕微鏡を発明して、天文学や医学を発達させたから、結核や天然痘といった致命的な病気を克服することになったのはご存じの通り。ホモ・サピエンスというのは、「もっともっと良いものが欲しい」という欲望で文化を進化させる存在なのだ。動物はただ食欲があって料理はしないけど、ヒトには文化があるので、もっと美味しいものを食べたいと思ったら新しい料理を発明してしまう。だから、ホモ・サピエンスにおいては何事も自然に多様化してゆくのである。
たとえば紀元前7世紀頃のアッシリア帝国の遺跡から世界最古のレンズが発掘されていて、これは虫メガネのように使われたのかもしれないし、火を起こすのに使われたのかもしれないんだけど、このレンズを作る技術が発展すると、遠くを見るための望遠鏡や小さなものを見るための顕微鏡、はたまた個人が顔にかけるメガネとか色んな方向に拡散して、映画の誕生にもつながる。望遠鏡と顕微鏡は、基本的には同じ技術でできているけど、用途は真逆ですわね。レンズというひとつのアイテムを、違った方向で使えるように工夫するのがヒトの文化の凄いところなんですね。紙に印刷された小説と、映画館で上映される映画は、見た目は全く違うメディアなんだけれども、どちらも一般大衆が物語を楽しむためにあるものだから、用途は同じなんですね。だから、小説で培われたテクニックが映画でも使えたりする。
1話ごとはぶつ切りの断片でしかないものを、新聞や雑誌などの連載形式で売ることで、お客さんの購買意欲をかき立てるというのは、本当に人類の歴史に残る大発見だったわけです。そう、物語は断片で切り売りした方が儲かるのだ。テレビの連続ドラマはモロに、この時代に成立した連載小説の影響を受けているし、物語の切り売り形式を徹底的に追求したことで戦後の日本の漫画は巨大な文化となり、『週刊少年ジャンプ』は世界最大の発行部数を記録し、その少年ジャンプで歴史的なヒット作となった「ONE PIECE」は、世界で6億部売れた。ヒットした漫画はアニメ化されることが多いけれども、これも物語を断片で切り売りする形式に違いない。我々は、とことん物語が好きな動物であり、それを断片で味わうことをことさら好むのである。少年ジャンプの方法論は19世紀に確立されたのだ。
だから19世紀のイギリスでは、ペニー・ドレッドフルと呼ばれる週刊誌スタイルの連載小説が人気を博した。ジェームズ・マルコム・ライマーとトマス・ペケット・パーストの合作『吸血鬼ヴァーニー』や『真珠の首飾り』といった作品は文学的な評価はあまり高くないけれども、当時の一般大衆からは広く支持されていたのだ。『真珠の首飾り』はティム・バートンの映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』の元ネタになった理髪師の殺人鬼の物語で、トッドは実在の人物だったという説もあった。つまり、ライマーとパーストは現代でいうところの都市伝説のようなお話を、本当にあったかも知れない話として下世話に描いて大ヒットさせたのだ。ヒットした証拠に、1846年に雑誌連載が始まった『真珠の首飾り』は翌年には舞台化され、サイレント映画の時代から何度も映像化され、ミュージカルにまでなっている。
この連載小説の形式はシリアルと呼ばれ、映画にもダイレクトに影響を与えた。1910年代から、短編の連作形式で作られた映画が人気を博し、それもシリアルと呼ばれたのである。当時のシリアル、連続活劇の多くは映画としてはあまり高い評価を受けていないのだが後世に与えた影響は絶大なものがあった。そもそもは断片的な映像でしかなかった映画が、D・W・グリフィスのような作り手によって、次第に長編の映画が多くなっていくのだが、初期の映画興行というのは短編を何本も組み合わせて上映するバラエティショー形式で、長編が中心となってからも何本かの短編と組み合わせて上映されたから、チャップリンやキートンのような喜劇と、ディズニーやベティ・ブープで有名なフライシャー兄弟が作った短編アニメの名作がたくさん残されているのだ。ミッキーマウスもベティ・ブープも戦前からの映画スターなんですね。
アメリカでは1950年代からテレビドラマが盛んになるのだけれども、基本的には映画館で上映されていたシリアルとフォーマットは同じで、スタッフも映画人だった。テレビドラマとして始まった『宇宙大作戦』(初放映時の『スタートレック』)は根強いファンがいたので後に映画化され、これもヒットしたのでシリーズ化され、テレビではさらに新しいシリーズが作られるようになった。『スター・ウォーズ』の場合は、元々はジョージ・ルーカスが子供の頃に好きだった連続活劇『フラッシュ・ゴードン』をリメイクしようとした企画だったんだけど、権利関係で実現しなかったからルーカスがオリジナルのストーリーを考えたわけですが、これが大ヒットしたものだから続編が作られて3部作になり、その3部作以前の物語が、これまた3部作で作られて、スピンオフのアニメが制作された後に、最初の3部作の後のお話が、これまた3部作で作られて、さらにスピンオフの映画やドラマがいくつも作られるようになって新たなファンを増やしている最中である。熱心なスター・ウォーズファンは全部見ているかもしれないけど、別に全部見なければいけないわけではない。今はネットで情報収集できるから、『マンダロリアン・アンド・グローグー』で『スター・ウォーズ』にハマった人は、とりあえず『マンダロリアン』のテレビシリーズと、『ボバ・フェット』のテレビシリーズの第5話から第7話を見ればよいのだ。というのも、『マンダロリアン』の物語は最初の2シーズンの後で『ボバ・フェット』のドラマとつながってから、『マンダロリアン』の第3シーズンのお話につながる。もちろん、全部見れば良いわけですが、『ボバ・フェット』でマンダロリアンとグローグーが重要な役割を果たすのは『ボバ・フェット』の第5話以降なので、マンダロリアンとグローグーだけが好きな人は『ボバフェット』の第1話から第4話までは無視しても話はつかめるわけです。つくづく、物語というのは断片だけで楽しめるようにできているものなのだ。
そもそも、映画が誕生した19世紀末の欧米にはヴォードヴィルという文化があった。これは、17世紀の末にフランスで誕生したミュージカルショーだ。これがアメリカでは歌や踊り、手品やショートコントといった盛りだくさんのエンタメに発展したわけだが、日本にはそれと似たような文化があって、いわゆる寄席である。日本の寄席は、講談に落語、漫才や浪曲、手品や物まねといった演芸を詰め合わせた幕の内弁当のようなスタイルでエンタメを観客に提供する場であるが、欧米のヴォードヴィルも似たようなものだと思っていい。映画が誕生した時点で、こういった大衆向けの舞台芸術を披露する劇場はそれなりにあったのだ。明治36年(1903)にオープンした日本で初めての常設映画館は浅草の公園六区にあった電気館だが、その周辺には中小規模の演芸場、芝居小屋が山ほどあった。つまり、映写機とスクリーンを設置すればそのまま映画館になるような施設がたくさんあったので、浅草公園六区は映画館が立ち並ぶ歓楽街となった。浅草の繁華街は関東大震災と第二次世界大戦の空襲とで二度も丸焼けになったけれども、災害から復興する際には映画館が建てられ、2012年に最後まで残っていた5箇所の映画館が一斉に閉館するまで、100年以上も映画の街であった。そんなふうにして、いろんな国で映画館が雨後の筍のように増えていったのが20世紀の前半だった。アメリカにもフランスにも、そしてロシアにもヴォードヴィルの劇場はあったわけです。そういった劇場では、演劇やコント、歌や踊りのショーがあって、そのプログラムの中に映画が組み込まれたわけだが、次第に映画が興行の主力となっていったわけですよ。
浅草の映画街(1979年) 写真:ANP Photo/アフロ
トリック映画の開祖ジョルジュ・メリエスやアメリカ映画の父D・W・グリフィス、そしてチャールズ・チャップリンが元々は舞台人だったことは象徴的ではないか。多くの舞台人が映画産業に進出したのは、もちろん舞台よりも映画のほうが儲かるからですね。まさに、映画の時代が到来したのだ。
ちなみに、1914年にアメリカで『火の海』という映画が公開されている。大正3年である。何が凄いかというと、この映画は日本の鹿児島県を舞台に、桜島が噴火して右往左往する人たちのパニックとサスペンスを描いているのだが、主演の早川雪洲や青木鶴子を筆頭に日本人のキャストが山ほど出演しており、登場人物たちの和服の着こなしは現代の日本で撮影された時代劇よりも、こなれて身についたものになっている。大正3年の段階で、アメリカには日本からの移民が大勢いて、祖国から持ってきた和服をちゃんと持っていたからこういう作品が成立したのである。そもそも、この時代の日本には洋服はあったけど、女性の大半は和装で男性も和服に西欧風の帽子をかぶったりしていたから、当時の移民の多くは和服で海を渡ったんですね。この映画の元ネタとなった桜島の大正大噴火が発生したのは同年1月12日で、前の年から早川らと日本物の映画を撮り始めていたトーマス・インスは、桜島噴火のニュースを耳にした2週間後には撮影を始めたという。インスのチームが撮影を終えた2月半ばの時点ではまだ桜島の噴火はおさまってはいなかった。まだネットのなかった時代なのに早過ぎるように思えるけれども、明治時代のうちに太平洋を渡る船の運航が整備されており、大勢の日本人が海を渡っていたから、日本とアメリカを往復する船の中では最新作のアメリカ映画が上映されたりもしており、日本からの情報も、ほぼ最速でアメリカに伝わったのだった。何しろ今みたいにネットもテレビもない時代ですから、日本人であっても東京や大阪に住んでいて新聞を読まない人は九州で火山が噴火したことなど知ることはなかっただろうが、アメリカの観客には伝わったのである。