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常識を疑え!

「生きづらさ」と「生まれてこなければ良かった」~「反出生主義」は何を伝えようとしているのか

香山リカ(医師)

 なんということか。この「産まない」「生まれない」は単に外的要因の悪化に対する防御や抵抗というだけではなくて、もっと本質的な何かと関係している可能性がある、というのだ。つまり、人気者の芸能人の自殺をきっかけに、「生まれた意味、生きている価値などなかったのかもしれない」と考えるようになり、生きる意欲を失っている診察室の人びとは、森岡氏言うところの「真の哲学的問題」に対峙している可能性がある、ということだ。

 だとすると、ますます精神科医はそれに対してどういう言葉を発してよいのか、わからなくなる。「そんなこと言わないでください。あなたが生きている意味はきっとありますよ」「あなたはそこにいるだけで価値があるんです。それ以上、なにも必要はありません」といった言葉は“きれいごと”に思え、私にはとても口にできない。かといって、もちろん「たしかに、それは“真の哲学的問題”ですね」などと言うわけもない。
 診察室で目の前の人から「生きていたくない」と打ち明けられたら、私は「とりあえず、また私に会うためにだけ、生き続けてもらえませんか。もしかすると、治療を通して、少しは何かを変える役に立てるかもしれません。そのために時間をください。来週また必ず来てください。もし待てなかったら電話してください。約束してくださいね」などと言う。しかし、それでその人の「消えたい」という願望を完全に止められる、という自信はまったくない。せいぜい時間かせぎでしかないので、そのあと「時間をくださいと言われたけど、なにも変わらないじゃないの」と非難されるかもしれないし、私の言葉など無視して人生の中断を実行に移さないとも限らない。あまりに可能性が高そうなら入院してもらうが、「可能性が高そう」かどうかの判断もあてにならないことがある。

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 反出生主義者のベネターは、人類の絶滅も歓迎していると言ったが、実は動物についても同じ考えを持っている。とにかく生まれるのは苦痛でしかないので、人間も動物もそれを避けるのが最良だ、という考えなのだ。森岡氏は、新著の中で次のように書く。

「ベネターが夢想しているのは、岩石でできた惑星の上に水が流れ、風が吹き、細菌がうごめき、植物や木が生い茂っている、そういう風景なのだろう。そこにはなんの快楽もないかわりに、なんの苦痛もない。」(前掲書)

 どうだろう。この描写に不気味さを感じる人もいるかもしれないが、一方でその永遠の静寂や調和を「美しい」と思う人もいるのではないか。
 1960年代、「地球と生物が相互に影響しあうことで、地球がひとつの生きもののように自己調節システムを備える」とする「ガイア理論」を提唱したイギリスの生態学者ジェームズ・ラヴロックは、100歳を迎えた2019年、新著を世に送り出した。この本の中でラヴロックは、「地球生命体ガイア」が次にパートナーとして選ぶものは人間ではなくてサイボーグ、つまり人工知能だとする衝撃的な仮説を提示する。
 それどころか、人工知能と地球との「ガイア共同体」ができ上がったときには動物も植物もいなくなる可能性がある、と100歳の科学者は反出生主義の旗手ベネターよりさらにラディカルなことを言う。その箇所を引用しよう。つけ加えておくが、これは新型コロナウイルス感染症が地上に出現する以前、2019年7月にイギリスで出版された本である。

「この新しいITガイアは当然ながら、人間が助産師の役回りをしなかった場合に比べてずっと長い生存期間を維持するだろう。最終的に、有機的ガイアはおそらく死ぬだろう。ただ、わたしたちが人間の祖先の種の絶滅を悼まないように、わたしの想像では、サイボーグたちは人間の滅亡を悲しまないだろう。」『ノヴァセン 〈超知能〉が地球を更新する』松島倫明訳、NHK出版、2020年)

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 新型コロナウイルス感染症の蔓延。反出生主義のブーム。自殺者の増加。いったい何が起きているのだろう。これは一時的なことなのか、それとも森岡氏やラヴロックが言うような「本質的な何か」の予兆なのだろうか。
 もちろん、私は精神科医として、コロナの影響を受けてうつ状態を呈する人たちや「もう生きていたくない」と訴える人たちが少しでも苦痛をやわらげ、できることならばまた生きる意欲を回復できるように、知識と経験をフルに使って対応していくつもりだ。いくら反出生主義や「ITガイア」が何かの本質だとしても、「人生の中断もやむなし」などとは絶対に思わない。
 しかし、いったん診察室を離れ、やや広い視野で世界を見たとき、また景色は違って見えてくる。これからもこの反出生主義の行方を、あるときは具体的に微視的に、あるときは抽象的に巨視的に追っていくつもりだ。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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