〈スペシャル対談 伊藤昌亮×雨宮処凛〉生きづらさを抱えた現代人が「リベラル」を嫌う理由 〜ひろゆき人気に見る冷笑系ブームと弱者争いがもたらしたもの(後編)
(構成・文/仲藤里美)
伊藤 たしかに、昔の右翼というのは今のいわゆる「ネトウヨ」とはまったく別物で、どんな人のことも包摂するというところがありましたよね。
雨宮 本当に、包容力はむちゃくちゃありました。
伊藤 日本の右翼の源流には、国の基礎は農業にこそあるとする「農本主義」があります。左派が都市の工場労働者とは連帯しても、地方の農民と連帯するという発想があまりなかったときに、右翼はそれをやっていたわけです。「弱い人たちを包摂する」のは、まさに右翼の伝統ともいえるかもしれません。
雨宮 はい。外から見ると怖いですが、中はすごく居心地がいい。とにかく誰でも来なさい、来た人は面倒見るよ、という感じでした。
伊藤 一方でリベラルはどうか。「リベラル」という言葉は90年代半ば、それまでの「革新」を言い換える形で使われるようになりました。本来はもう少し広い意味合いのある言葉ですが、日本ではほぼ「左派」と同じ意味で使われてきたと言っていいと思います。
ただ、この「左派」にもいろいろあって……今「リベラル」と言ったときにイメージされるのはおそらく、市民主義的な左派だと思います。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などがその源流でしょうが、そこから80年代になって、従来の左派のように世界革命を目指すのではなく、自分たちの町でリサイクルやボランティアなど小さな市民運動を展開していこうとする人たちが出てきたんですね。その時期と、リベラルという言葉が定着していった時期が重なっていたために、リベラルといえば市民主義的、社会民主主義的で寛容な左派、というイメージができてきたんだと思います。
ただ、実際には左派の中には、旧来の共産党や社会党に代表される旧左翼、そして50年代終わりから出てきて過激な学生運動を繰り広げた新左翼といった流れもあって、もともとはそちらが主流だったわけです。特に新左翼は70年代以降も反差別運動なんかを展開していましたが、あちこちで「糾弾」があったりと、かなり過激で「不寛容」な運動でした。そうしたマインドが、今のリベラルといわれる人たちの中にも流れ込んでいるのかも、と思ったりします。
雨宮 「リベラルは寛容なはずなのに不寛容」だというのが、リベラルを嫌う人たちの主張のひとつですが、その「リベラルは寛容なはず」自体が、単なる勘違いだったんでしょうか。
伊藤 勘違いというか、少なくともそんなに長い歴史のある話ではないですよね。
また、文化的な意味での左派というのは本来、「統制を弱める」方向に行くはずなんです。自国中心主義や男性中心主義といった硬直した考え方を押しつけるのではなく、多様な考え方を認めるということですね。ところが、今のリベラルは「こうでなくちゃダメだ」「こんなことを言うやつとは連帯できない」というふうに、統制を強める方向に行っているように見えます。そこに対して違和感を持っている人は少なくないし、それが「リベラルへの反発」が強まっている背景の一つではあるんじゃないかと思います。
リベラルが果たすべき役割は
雨宮 さて、ここまで「冷笑系」が支持を集めるのはなぜか、「リベラル」が嫌われるのはなぜか、について考えてきたわけですが、そうした状況を変えていくにはどうすればいいのでしょう。どうお考えですか?
伊藤 私は、やはりリベラルがもう一度ちゃんと「貧困」の問題に取り組むことが重要だと考えています。
先ほども触れたように、2000年代にはリベラルによる貧困問題への取り組みが一時期盛り上がりました。あの時期には、リベラルに対して反発する人はそれほど多くなかったはずなんです。その、開花しかけたはずの「本当のリベラル」を取り戻す必要があるんじゃないでしょうか。
雨宮 同感です。もちろん、リベラルが差別やフェミニズムの問題に取り組むことは非常に重要ですが、貧困問題が注目された時、私は右翼の人たちからも「君は真の愛国者だ」って応援してもらいました。思想とかはまったく関係ないテーマなんですよね。
伊藤 しかも、当時の貧困は「ホームレス」状態の若者が急増したといわれたように、「目立つ」形の貧困でしたよね。それが今は「目立たない」形へと変化している。
雨宮 はい。家賃が払えなくてネットカフェで生活してるけど、見た目じゃその人がお金に困っているなんて全然分からない、という人がたくさんいます。
伊藤 そうした「目立たない」貧困や生きづらさも含めてちゃんと貧困問題に向き合う。そういう形でリベラルというものを再定義していかないと、どんどん「リベラル嫌い」は増えるばかりだと思います。
雨宮 そのときに、「弱者支援」とか「弱者」という言葉は使わないほうがいいのかな、ということも最近考えています。「弱者」と言われたときに、「あ、自分のことだ」って思う人っていないじゃないですか。たいていの人は「自分は弱者だ」とは思いたくないから。
伊藤 イギリスのトニー・ブレア政権がかつて、右と左の中間を行く「第三の道」というものを提唱しました。その中で彼は、社会保障というもののあり方自体を転換させたんですね。つまり、「弱者支援」から「社会的投資」へのパラダイムチェンジをしようとしたんです。
「弱者支援」と言ってしまうと、「弱者」という一部の人への支援ということになりますが、「社会的投資」はそうではありません。「もう1回勉強したい」と考えた人、あるいは何か事情があって本来の力を発揮できないでいる人なら誰でも「国による投資」として、たとえば職業訓練プログラムを無償で受けることができる、という施策をとったんです。結果的にこの取り組みは「成功」といえる結果にはならなかったのですが、考え方自体は重要なのではないでしょうか。
雨宮 今はこれだけみんな「投資」が好きなんだから「自分に投資してくれる」という言い方は刺さりそうですよね。
伊藤 そう。企業ではなくあなたの人生に、国が投資する。そういうものとして社会保障を再定義するわけです。それによって、社会保障のあり方だけではなく、投資というもののあり方も変えることができるんじゃないかと思うんですね。
雨宮 民主党政権のとき、厚生労働省の「ナショナルミニマム研究会」に参加させていただいていたんですが、そこでまさにその「投資」的な考え方の話が出たことがあります。今ロスジェネ世代の就労支援・職業訓練などにこれだけお金をかければ、将来生活保護利用者がこれだけ減る、という試算をもとに議論をしたんですね。そうしたら、今少しお金を使えば、将来の支出が圧倒的に抑えられることが分かった。すぐ自民党政権に戻ったこともあって、あそこでの議論はほとんど生かされないままになってしまったんですが、あの話は実はすごく重要だったんじゃないかと思います。
伊藤 そうですね。ブレア政権では、「社会的排除」という言葉も大きなテーマになりました。ただ経済的に貧しいだけでなく、人間関係や社会関係から排除されてしまっている状態を指す言葉で、「貧困」よりもかなり広い範囲を指す概念です。日本でもいわゆる「貧困問題」への取り組みにとどまらず、そうした、幅広い人たちに向けた施策のあり方を考えていくべきなんじゃないでしょうか。
雨宮 そうですね。もっとみんなが、「貧困」だけではなく社会全体のあり方について考えることにもなると思います。
伊藤 明日食べるものもないというような貧困状態に陥っているわけではないけれど、社会からふわっと排除されてしまっている「ふんわりした貧困」の状況にある人たちに、どんな支援をしていくのか。それは、必ずしも再分配の形でなくてもいいはずです。たとえば今ならギグワーカーの待遇改善など、労働法制に関する取り組みも一つの施策になり得るでしょう。
そうしたことも含めて、さまざまな形で社会から排除されている「ふわっとした弱者」をどう救い、支えていくのか。その方策を提示するのが、リベラルにこれから求められる取り組みなのではないかと考えています。
雨宮 素晴らしい! 今日は本当に勉強になりました。ありがとうございました。
