「社会的連帯経済」への誘い17「ケアセンターほみ」地域を支える多文化協働
工藤律子(ジャーナリスト)
この連載をもとに再構成した書籍『働くことの小さな革命 ルポ 日本の「社会的連帯経済」』が、集英社新書より2025年2月に刊行されました!
2008年のリーマンショックは、愛知県豊田市にある自動車関連の工場で働いていた大勢の外国人から職を奪った。多くの人が生活していけなくなり帰国を余儀なくされる中、日本人と手を取り合って協同組合を運営し、地域で新たな役割を担うようになった外国にルーツを持つ人たちがいる。

愛知県豊田市の保見団地。かつては九州や北海道から、1990年代以降は中南米から自動車関連産業で働きにきた労働者が大勢住む。その人口の約半数はブラジル人だ。撮影:篠田有史
「出稼ぎ」から「信頼される介護の担い手」へ
日系ペルー人3世の上江洲(うえず)恵子さん(50)は、1990年に来日。沖縄や静岡で様々なアルバイトをした後、1998年から豊田市にある工場の清掃員として働き始めた。日本政府がバブル景気の人手不足を補うために、1990年6月、改正「出入国管理及び難民認定法」を施行し、日系2世、3世らに単純労働と定住資格を認めたからだ。自動車関連産業が盛んな豊田市では、大勢の日系ブラジル人や日系ペルー人らが市内にある保見(ほみ)団地に住まいを置き、工場労働者として働いていた。そんな彼らに、リーマンショックは深刻な失業問題をもたらす。
「ほとんどの人は、日本政府の日系人帰国支援事業(2009年4月から1年間、政府が帰国費用などを負担した事業)で、母国へ帰りました」
と、上江洲さん。しかし、自身は保見団地に留まる。
「日本で生まれ育った子どものいる家庭の中には、帰国せずに生活保護を受けながら仕事を探している人もいました。ちょうど3人目の子どもが生まれて産休をとっていた私は、ハローワークで、介護サービスの人材を育てる教室が団地で開かれると知り、参加を決めたんです」
それは、当時保見団地で活動していたNPO「ラテンアメリカセンター」が、「保見に働ける場を作ってほしい」と、愛知県高齢者生活協同組合(愛知高齢協)らに要請したことから実現した「保見ヶ丘介護教室」だった。上江洲さんは、「これからどうなるかわからない中、介護の仕事なら生活が安定すると思いました」と、振り返る。
介護教室は、ハローワークが提供する職業訓練である「介護職員初任者研修」が愛知高齢協らに委託される形で実施された。講習生は皆、受講給付金を受け取りながら学ぶことができたため、日本人10人と日系ブラジル人や日系ペルー人10人が、約3カ月間の講習を受けることになった。
「私は、工場労働の合間に独学で身につけた小学校3、4年レベルの日本語力しかなかったので、毎日8時間、必死で漢字の勉強をしました。おかげで帯状疱疹になったほどです」
上江洲さんはそう苦笑する。

「ケアセンターほみ」の代表、上江洲恵子さん。デイサービスの管理者でもある。撮影:篠田有史
苦労の甲斐あって、講習を無事に修了。2011年6月には、愛知高齢協の協同組合として設立された「ケアセンターほみ(以後、〈ほみ〉)」で、ほかの介護教室修了生とともに、訪問介護サービス事業を運営することになる。だが、その船出は困難の連続だった。
「開所したものの、利用者がいなくて……」
上江洲さんたちには、団地に住む日本人とのつながりもなければ、信頼関係もなく、おまけに介護事業には欠かせないケアマネジャー(介護支援専門員)とも面識がなかったからだ。初めて利用者になってくれたのは、友人である日系人の母親たちだった。
日系人の利用者の多くは、介護保険制度を知らず、知っていても日本語で書かれた内容を十分理解することができなかった。そこで、上江洲さんら日系人スタッフが、自らも専門用語を学びながら、日本人スタッフやケアマネジャーの助けを借りて、利用者に仕組みを丁寧に教えた。
「そうして地道にやっていくうちに、ケアマネジャーさんたちからも認められるようになりました」
と、上江洲さん。初めのうちは訪問介護サービスの依頼を受ける際、「ヘルパーには日本人も外国人もいますが、それでも大丈夫ですか」といちいち確認していたが、やがてその必要もなくなった、と微笑む。
そして現在、上江洲さんが代表を務める〈ほみ〉は、地域の訪問介護サービスを担う重要な存在となった。
心と暮らしを支えるヘルパー
〈ほみ〉のスタッフは今、計18人いる。半分が日本人、残りは日系ブラジル人と日系ペルー人だ。訪問介護サービスの利用者は、日本人を中心に60人前後いるが、毎月訪問するのは34人で、そのうち10人がブラジル人やペルー人(日系以外も含む)。取材当日は、保見団地に住むブラジル人家庭を訪問するヘルパーの仕事を一部見学した。
午後3時、日系ブラジル人のヘルパー、大津美子さん(50)は、脳卒中の後遺症で右半身が動かない神崎エンリケさん(72)と障がいのある娘のカテリンさん(35)を訪ねた。まず、おしゃべりをしながらエンリケさんの血中酸素濃度や体温をチェック。その後は、カテリンさんの散歩に付き添い、戻ってきてから夕食の準備に取り掛かる予定だ。この日は散歩の前に、私たちを案内してきたもう1人のスタッフ、やはり日系ブラジル人の藤田パウロさん(76)も交じって、皆でおしゃべりに花を咲かせる。

車椅子に座った神崎エンリケさんの手を取り、血中酸素濃度を測る大津美子さん。撮影:篠田有史
病気で倒れる前は、日本全国をバンド仲間と演奏旅行していたというエンリケさんが、ラテン音楽の有名なバラード曲のカラオケをかけて歌い出す。カテリンさんは笑みを浮かべ、藤田さんは一緒に歌を口ずさみ始めた。大津さんが「日本の演歌と似ているのよね!」と笑いかけると、エンリケさんは「そうそう、だから日本人も好きなんだよ。ヘルパーのあなたにも、歌を教えてあげよう」と、上機嫌だ。
大津さんは友人に勧められて、介護ヘルパーの資格を取り、2022年10月から〈ほみ〉で働き始めたばかりだ。この仕事がとても気に入っていると言う。
「以前働いていた工場と違って、ここでは人と関わる仕事ができるのがうれしいです」
別の日系ブラジル人のヘルパー、田港セリさん(62)は、この日、ブラジル人のルイス・ミランダさん(60)の介助に向かった。ルイスさんは、神崎エンリケさん同様、脳卒中を起こしたせいで体が思うように動かないうえ、言葉も話せない状態。元気な頃は妻のエリアナさんと工場や弁当屋で働いていたが、今はほとんどベッドに寝たきりでテレビを観るだけの毎日だ。強いストレスのためか、妻以外の女性の介護は受けたがらないので、田港さんはヘルパー仲間でもある妻エリアナさんと協力しながら、ルイスさんとは一定の距離を保って仕事をこなしていた。そんな中、この日は一緒にいた男性スタッフの藤田さんが、その立派な髭を見て「サンタのようですね!」などと気さくに話しかけたことで、ルイスさんが笑顔になり、自ら起き上がってベッドの下に足をついた。それから藤田さんとカメラに向かってポーズ——。

藤田パウロさんの声がけに元気を得たルイスさんは、自ら起き上がって一緒に写真を撮ることに。撮影:篠田有史
