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連載

カラスも知らない祭祀――済州島四・三事件をソウルが悼んだ日

第6回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

 今回、文化祭には、そのチェサを累々と体験してきた遺族の方が、何人も参加していた。私はあたう限りその声を聴き、書き記すことに決めた。

幼少期の苦しい体験を語る遺族の女性たち。

 オ・チョンザさんという女性は1942年生まれの76歳。当時19歳だった兄が犠牲になった。
「私は6歳でした。家にいたのですが、警察がやって来て長兄を連れて行きました。それきり帰って来ませんでした。それより前に、父も日本からの独立運動に身を投じて行方不明だったので、うちは男がいなくなってしまったのです。母が必死になって探したのですが、見つかりませんでした。四・三のときは子どもでしたから、何も分からなかったのですが、成人になるにつれてそれは話してはいけないこと、伝えてはいけないことと教えられました。家から警察に連行された者が出たと知られれば、末代まで公務員や軍人の仕事はできなかった。済州では身を立てる試験の前に、どの家族の娘か息子かというのを調査されて、もし四・三に関係があったら、受験の権利も資格も奪われたのです」
 優しかったお兄さんの記憶が今でもぼんやりとある。しかし愛すべき人を追悼することができない。被害者であるのに差別が続く。その悲しさ、悔しさはいかばかりであったか。

 オ・ヨンヒさん(女性)は、3歳のときに同様に父が連行されて殺された。
「父が食事をしていたところに怖い大人がやって来たのを覚えています。祖母が『この今、食べているご飯を終えるまでせめて待ってもらえませんか』と言っても聞いてもらえなかった。そこから全部、村の男はみんな一緒に銃剣で刺されて殺されたらしい。従弟のお兄さんは新婚2日目で殺されました。遺体も昼には全部持ってくることができなかったので、夜に行って持ってきて…。お墓を作るのにも7年くらいかかりました。私が10歳のときにお墓ができたんです。父が殺されて数年経つと、今度は母が家を出て行きました。私と妹は捨てられて、いろいろな親戚の家族をたらいまわしにされました」
 オさんに、その後はどのように生活をしてこられたのでしょうか、と訊いた。即座に断じられた。「生活? 私の人生に生活なんてものは無かった」

1日で殺された父親たちと、馬小屋で生まれた子どもたち

 ヒョン・スルセンさん(女性)は事件のあった1948年に生まれた。この年に生まれた子どもには二つの大きな共通点があると言う。
「11月17日に済州道に戒厳令が敷かれて、翌日の18日には、山に近い中山間地帯で虐殺が起きました。そして家が全部燃やされたのです。だから身ごもっている女性は子どもを産む場所が無くて、皆、馬小屋に駆け込んで出産したと聞きました。私の母もそうです。11月18日には多くの父親が殺されました。だからチェサをやる日も同じ。馬小屋で生まれ、11月18日に親のチェサをやる。そんな同級生がたくさんいるのです」
 戒厳令は全てを焼き尽くす焦土作戦をもたらした。生き残った者も家族の中で一人でも行方不明者がいたら、蜂起に携わった避難者の家族と見なされて代殺されたのである。

1948年11月17日の日付と、李承晩元大統領の署名が入った戒厳令布告(大韓民国歴史博物館所蔵)。戒厳令の発令後、弾圧の対象は急速に民間人にまで広がった。

 パク・ヨンオクさん(女性)は、国にはせめて父親の遺体の捜索と確認をやって欲しいと言う。
「父は済州で捕まった後、大田の刑務所に収監されたのです。その後、6月25日(注・1950年、北朝鮮軍の侵攻によって朝鮮戦争が開戦した日)に戦争が起きて、北のスパイということにされてしまって、他の人たちと並べられて全員銃で殺されたのです。アメリカ兵も韓国の警官もいたし、誰に殺されたのかは、分からないそうなのですが、国にしっかりと調べて欲しいです」
 ヨンオクさんは、いつも夜が明るかった印象があるという。「夜は暴徒が襲ってくるから、みんなで村の集会所みたいなところにいつも集まって来て、焚き火を燃やしていたのです。暴徒は怖かった。竹やりで襲ってくるのです。こんなこともありました。ある日、集会所にひとりの女性が来たんですね。その人が警官の妻だということが分かった瞬間、周りの人の怒りを買ってしまったんです。牛の食べる飼い葉に彼女を投げ入れて、それに火をつけて燃やしてしまったんです」
 極限に達した怒りは、官憲の妻に対する報復に向かった。

 聞けば聞くほどに、抑えつけられていた言霊が、消されていた記憶が、立ち上がってくる。

 済州4・3抗争70周年文化祭、夜のステージでは、パンソリの第一人者ペ・イルドンの演奏。そして犠牲者を悼むパフォーマンスが圧巻であった。演者は「ネイルムン(私の名前は)○○」と、それぞれに亡くなった犠牲者の名を名乗って次々に舞台中央に集まる。不可視にされていたもの、数や記号で語られてきたものに人格を与えたのである。

「私の名前は……」、犠牲者たちの名が次々に語られる。

負の歴史を直視する力

 この4月7日のソウルは、決して大げさではなくこれこそがデモクラシーだと感じさせられる空間であった。一部では確かに、追悼の催しを妨害しようとする右翼やヘイトスピーカーも参集はしていた。景福宮前では星条旗と太極旗、そしてイスラエルの旗を振って「文在寅(ムン・ジェイン)をモサド(イスラエルの諜報特務庁)に殺してもらいたい」「税金の8割が済州島に流れている」とわめきたてている女性がいた。「済州島特権を許さない」というわけである。では、その特権とやらは何で知ったのか?と聞くと、「インターネット」という。広場の脇では、平昌(ピョンチャン)オリンピックの南北統一チームを揶揄する集団もいた。しかし、それ以上に済州島の痛みを同じ人間として共有しようという寛容な空気がマジョリティとして満ち満ちていた。

アメリカ、韓国、イスラエルの国旗を振り、文在寅に対するヘイトスピーチを繰り広げる70代の女性。

 もちろん、歴史に残る演説をした文在寅大統領がけん引したことは大きい。「済州道民と共に長らく4・3の痛みを記憶し、表現してくださった方々がいたおかげで、4・3は目覚めました。国家暴力によるすべての痛みと尽力に対し、大統領として改めて深く謝罪すると共に、深く感謝申し上げます」(「済州島4・3抗争70周年記念 講演とコンサートの集い 眠らざる南の島」パンフレットより引用)。
 ただ一方でそれに呼応する市民のエネルギーを感ぜずにはいられなかった。
 ソウル市内を流れる漢江の西側の中学校では、全科目を上げて四・三事件を学ぼうという試みがなされたという。会場に生徒を連れて来ていた引率の教師に聞けば、国語の時間に四・三の悲劇を素材にした玄基榮(ヒョン・キョン)の小説『順伊(スニ)おばさん』を皆で読み、英語の授業ではこのジェノサイドをどう伝えるかを英作文し、美術の課題で四・三事件追悼のオブジェを作ったという。そしてこの引率者は化学の教師だった。中学校間の横のつながりも活発で、13校にわたる合同の生徒会では、早々に文化祭への参加が決定され、膨大な数の椿の造花が作られた。
 朴槿恵(パク・クネ)時代には政府を批判する人物のブラックリストが作られ、監視されてきた芸能界からも動きがあった。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の親善大使でもある俳優のチョン・ウソンは、運動告知の旗振り役となり、歌手のイ・ヒョリは追悼式で詩を朗誦した。

韓国の有名俳優、チョン・ウソンの肖像を掲げる青年。

 市井の人々も自分たちの職場で機運を盛り上げた。ソウル市内のある焼肉店などはこの間、済州島の奉蓋洞(ポンゲドン)にある4・3平和公園に行ったことをSNSで発信したお客さんにはランチをサービスすることを宣言した。
 韓国が今、東アジアの平和構築を担っている根幹には、朴槿恵前政権を倒した下からのパワーと、ナショナリズムを相対化する民衆の視点がある。ソウルでは4月20日から、ベトナム戦争の際の、韓国軍によるベトナム民間人虐殺に関する模擬的な民衆法廷が開催された。朴政権への抗議のためにキャンドルデモに参加したというある女性は今、必死にこの二つの事件を学び直そうとしていると語った。
「私は蝋燭を持って街に出たあのデモで社会を変えられることを知りました。妨害する人もいますが、もう恐れることはありません。韓国は民主化をして、そして過去の加害者としての清算もしないといけない。私は今まで四・三を知らなかったことを恥ずかしく思います」
 20代から、家族のために家計を切り盛りしていた彼女は、経済活動に追われながらも立ち上がった。1988年生まれの彼女は名前をミンジュ(民主)という。盧泰愚の民主化宣言の翌年にそう名付けた両親、そして本人。二世代にわたるゆるがない意志の継続をまざまざと見せられる思いだった。

この日、済州島から来たという小学生が頬に椿のペイントを施している。若い世代が自らの言葉で追悼を語った。

 

*Special thanks to Park Minju

※写真の複写・転載を禁じます。

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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