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連載

ヘイト――憎しみはどこからやって来るのか

第4回

吉田徹(同志社大学教授)

 精神的ダメージから麻薬を服用し、自殺するところまで追い詰められていたカティヤは、ギリシャに逃れた犯人の夫婦たちに復讐を果たそうと後を追います。彼女は夫と子どもが殺された爆弾と同じ手製爆弾の作成方法をネットで入手し、夫婦が暮らすキャンピングカーに仕掛けます。作品のラスト10分の緊張感はすさまじいものがありますが、彼女はキャンピングカーにとまった小鳥をみて、爆弾を仕掛けるのをやめます。復讐を諦めかけたかにみえる時、事件以来止まっていた生理が彼女に訪れます。そしてカティヤは、再びキャンピングカーに爆弾を仕掛け、犯人たちを巻き添えにして自死します。小動物に生命の尊さをみて殺害をやめるのも、生理がきたことで殺害に至るのも、同じ程度にリアリティがあります。カティヤは、人を殺すことの意味合いを自ら引き受けるのです。
 リストカットなどの自傷行為は、極度のストレスに起因しますが、こうしたストレスは他人への攻撃性となって表れることもあります。自分を取り巻く不条理に耐えられず、自分を愛することのできない者は、他人を否定することで、その葛藤を処理しようとするためです。
 だからもしヘイトを本当になくしたいのであれば、偏見や差別をなくせと言い募るだけではなく、自分自身を肯定できるような社会を作らなければならない――そんな手掛かりを与えてくれるのが、次に紹介する映画です。

『判決、ふたつの希望』――和解への道

 民族のるつぼといわれる国や地域は世界でたくさんありますが、その代表格の一つが中東にあるレバノンです。同国は、第一次世界大戦中、オスマン帝国の領土分割を決めたイギリス、フランス、ロシアによるサイクス・ピコ協定によってフランス支配下に入った地域でしたが、第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに占領され、独立を果たしました。宗教的な禁忌も少なく、投資バブルに沸いている首都ベイルートは、今でこそ目覚ましい発展を遂げていますが、戦後のイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の対立から、同国はシリアとイスラエル、さらにアメリカとソ連との代理戦争の地となり、「第五次中東戦争」とも呼ばれた、1970年代半ばからの20年近くにおよぶ内戦を経験します。
 内戦がかくも長く続いたのは、イスラエル対パレスチナという構図に加えて、東西冷戦、さらに細かく宗派に分かれたイスラム教徒とキリスト教徒の対立という、異なりつつも重複する分断線があったためです。こうした複雑な対立構図は映画の格好の素材ともなり、「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルートは『デルタ・フォース』(1986年)、『スパイ・ゲーム』(2001年)など、数々のスパイ、アクション映画の舞台ともなりました。
 このレバノンの歴史を背景に、キリスト教徒とイスラム教徒による互いの憎しみから和解への道を描くのが、レバノン人のジアド・ドゥエイリ監督『判決、ふたつの希望』(2017年)です。
 この作品はキリスト教徒でパレスチナ人に敵意を持つ自動車工トニーと、パレスチナ難民で工事監督を務めるヤーセルの二人の中年男性が主人公です。原題に『The Insult』(侮蔑)とあるように、映画は些細ないざこざから、ヤーセルがトニーに対して「クズ野郎」と罵るところから展開していきます。トニーが謝罪を求めてもヤーセルが頑なに拒否したため、トニーは「シャロン(パレスチナ強硬派だった元イスラエル首相――註)に殺されてればな」と罵り、これを聞いたヤーセルが思わず彼に拳をあげます。
 ヤーセル自らが出頭し、この暴力沙汰は裁判にかけられますが、ヤーセルがトニーの侮蔑の言葉、すなわちなぜ彼を殴ったのかの理由をなぜか最後まで明かさなかったため、訴えは棄却されます。その後、殴られた傷を押して仕事に勤しんだこともあって、症状を悪化させたトニーはヤーセルを訴え、舞台は再び法廷に戻ります。
 この時トニーが弁護士として雇ったのが、「弱者救済はブームだ」とのたまう、パレスチナ人に批判的な極右思想を持った弁護士でした。彼は「パレスチナ人の絶望を語る時、彼らだけが虐げられた人のようだ。アルメニア人、クルド人、ゲイは? 権利を奪われても殴り合いなどしない。あなたが祖国を失った難民だからといって暴力の言い訳にはならない」と、「新しいレイシズム」の論法で正義を求めます。ヤーセルにも(実はトニーの弁護士と因縁浅からぬ)人権派弁護士が付き、トニーの言こそが「ヘイトクライムに値する」と主張し、法廷はあたかもレバノンの歴史を象徴するような代理戦争の様相を呈することになります。

映画『判決、ふたつの希望』より

 この作品で興味深いのは、異なるバックグラウンドを持ち、対照的にみえるトニーとヤーセルという人物が、実は多くの共通項を持っていることが示唆されていることです。二人ともプライドが高く、職人肌だけれども怒りっぽく、恐妻家で優柔不断な人物にみえます。物語が進むにつれて、トニーはマジョリティの中の弱者であり、ヤーセルはマイノリティの中の強者であることも次第に明らかになります。しかしこの二人の対立は法廷外に波及していき、大統領までが憂慮するまでの国内の民族的対立へと煽り立てられることで、事態は深刻なものになっていきます。
 激化する民族的対立の中で、トニーは「政治を絡めるな」と自らの弁護士に異議を唱えます。彼がヤーセルを許せないのは、彼が自国に流入してきたパレスチナ難民だからではなく、何気ない侮蔑を発したにも係らず謝罪をしないからでした。トニーを罵って殴ったのが、たまたまパレスチナ人だったわけです。
 終盤にさしかかって物語は、特定の民族に属するトニーとヤーセルではなく、個人の尊厳をかけた二人のせめぎ合いへと焦点が当たっていきます。思わぬ展開をみせる裁判でヤーセルは無罪を勝ち取りますが、最大の見せ場は、二人が民族的な立場ではなく、自分の個人としての感情を肯定することで、裁判によらない真の和解に至ることです。裁判沙汰となって社会が沸き立つことで、トニーもヤーセルも、当初自分が持っていた本当の感情が置き去りにされ、民族問題へと変化していってしまうことに嫌悪感を抱くようになっていきます。最終的にはヤーセルがトニーに自分を殴らせるという行為を通じて、二人の対立は和解へと昇華されることになります。
 ここには、ヘイトから自由になる方法が暗示されています。すなわち、相手への敵意であろうが、怒りであろうが、自分の感情を素直に認めた上で、民族や人種といった個人の属性をその敵意の理由としないこと――それがまた自分を認めるということの意味であり、和解への道となるのではないでしょうか。ヘイトクライムやヘイトスピーチをなくすヒントは、意外と身近なところにあるのかもしれません。

著者情報

同志社大学教授

吉田徹

よしだ とおる

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。

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