冷戦――イデオロギーの束縛
吉田徹(同志社大学教授)
物語の入り口となるハンガリー動乱は、1956年10月、非共産党系の学生組織が各地で生まれ、言論の自由やさらなる民主化などを求める運動を開始したことで発生した事件です。この時、改革派と目されたナジ・イムレ首相は、学生運動を「反革命」と決めつけて弾圧する一方、国民の支持を集めるため民主化の道筋をつけ、ソ連の軍事介入を防ごうとしました。しかし、ソ連軍の撤退とワルシャワ条約機構からの脱退を表明したナジ政権をソ連のフルシチョフ書記長は許さず、赤軍がブダペストに侵攻、2700人余りのハンガリー人が戦闘死しました。東ヨーロッパに対するソ連の影響力があらわになり、西側諸国はこれ以降――冷戦が終わる実に1989年まで――ソ連と対抗するのではなく、勢力均衡を保つことを選択するきっかけを作りました。

映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』より
作品の中で、高校生たちは、禁止されている「アメリカ占領地区放送」でハンガリー騒乱についてのニュースを聞くため、同級生の叔父の家に集まります。そこで隠遁生活を送る叔父は、高校生たちにこう語りかけます。
「人は何らかに従属している……しかし諸君は違うことをした……‟我々は自由に考える”と表明した。体制側はこれを嫌がる……諸君は国家の敵だ……自分で自由に考えその考えに沿って行動するからだ」
学校側は、「ファシストの反革命」を支持している学生が誰であるかを特定しようと、有形無形の嫌がらせを彼らに行い、首謀者が誰だったのか、密告するよう迫ります。
この映画が出色なのは、当時の東ドイツの人々の生活をリアルに描き出しているだけでなく(例えば、高校生は毎朝、ドイツ社会主義統一党傘下の青少年組織がさせられる「ピオネール式挨拶」をさせられます)、なぜ社会主義体制が生まれたのか、歴史的経緯を踏まえてストーリーが展開することです。ハンガリー動乱を「ファシストの反革命」だと非難するテオの父親の言葉に象徴されますが、第二次世界大戦後、ソ連と東側諸国はナチス・ドイツを打ち負かし、その上に社会主義体制を築いたことを共産党支配の正当性の根拠として求めました。これは、中国共産党や北朝鮮の労働党の一党支配が、抗日に求められる構図と類似しています。
西側諸国もナチの残党を支援して社会主義陣営に対抗しようとしました(具体的には、ドキュメンタリー映画『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』〈ケヴィン・マクドナルド監督、2007年〉で詳しく紹介されています)。つまり、米ソ冷戦といっても、それは戦後に突如として生まれたわけではなく、第二次世界大戦の影響を色濃く引きずるものだったことも映画に盛り込まれています。
首謀者を告発すべきと息子クルトを諭す父親は、「進学クラスに通う者は一族ではお前が初めてだ。他は戦死した。でなきゃ鉱山か発電所か俺みたいに製鉄所勤務か」だと、言います。彼もまた、若い頃、1953年にあった「ベルリン蜂起」に参加し、その後その仲間を裏切った経験を持つ人物であることが示唆されています。
「ベルリン蜂起」とは、労働ノルマの引き上げに対して約40万人の東ドイツの労働者がデモとストライキを行ったことで人民警察が介入し、300人近くが殺され、200人近くが「首謀者」として銃殺刑に処せられた事件です。1953年にスターリンが死んだことで、東ヨーロッパではチェコスロヴァキアやアルバニア、ブルガリアといった国でもポスト・スターリン体制をめぐって共産党内部での路線闘争や権力闘争が起こり、数十万ともされる人々が政治犯として処罰されました。
テオとクルト、そして彼らの仲間たちは、父親たちとは異なり、イデオロギーを前に仲間を裏切ることを拒否して、西ベルリンへ亡命して自由の道を歩むことを選びます。それは、過去の歴史に囚われず、自らの手で歴史を作り上げる行為でもあります。ドイツには「ビィルドゥングス・ロマン」、すなわち青少年の内的成長を描く文学作品の伝統がありますが、この映画もまたその系譜に位置付けられるでしょう。
テオやクルトのような西ベルリンへの亡命者が増えていったことに業を煮やしたソ連と東ドイツは、1961年8月にわずか3日間でベルリンの壁を完成させます。
『ホワイト・クロウ』――自由は何を意味するのか
壁が建設された1961年に起きた、やはり東西冷戦の象徴的出来事を描くのは『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』(2018年)です。監督は、自身も作品に出演しているレイフ・ファインズ。最近ではボンド・シリーズの「M」として活躍する俳優ですが、監督として『英雄の証明』(2011年)など社会派映画も世に送り出しています。主人公である実在のソ連のバレエ・ダンサー、ヌレエフを演じるのはオレグ・イヴェンコという実際のダンサーで、その踊りも作品の大きな魅力です。
ルドルフ・ヌレエフは、若い頃から「白いカラス」(これが原題となっています)と呼ばれ、向上心に溢れるものの、自意識の強い傲慢な人物として描かれています。ちなみに彼は、ソ連で民族的マイノリティであるタタール系(バシキール人)ですが、そのコンプレックスを感じさせるシーンなども挿入されています。
彼は貧しい生い立ちながらも、名門キーロフ・バレエ団に所属、オペラ・ガルニエ座での公演のためパリを訪れます。共産党の政治局員の監視の下、初めて訪れるパリで彼はキャバレーや音楽会に行き、フランスのダンサーたちと門限を破って交流するなど、自由奔放に振る舞います。「‟社会主義者だけで固まって黙ってろ”(と言われる。でも)僕には務めがある。できる限り見て学ぶこと」――情熱を傾けるバレエという芸術のために、彼は文化の都、パリで貪欲なまでに文化と芸術を吸収しようとします。
中でも、早朝のルーブル美術館でロマン派の草分けテオドール・ジェリコーの大作『メデューズ号の筏』にヌエレフが見とれるシーンが印象的です。なぜこの作品をフィーチャーしたのか、監督の意図はわかりませんが、1816年にフランス海軍「メデューズ号」の難破を描いたこの絵画は、復古王政下の政権の失政を告発するものだと当時解釈され、世間で賛否両論を引き起こしました。芸術の力で体制に挑んだジェリコーの姿と彼の作品に、ヌエレフが強く共感したことを示したかったのかもしれません。
5週間に及ぶパリ公演を終え、バレエ団が次の目的地であるロンドンへと移動する間際、ヌレエフは、一人モスクワに帰朝するよう命じられます。自身の破天荒な行動から当局に罰せられると本能的に悟った彼は、政治亡命を決意します。空港のロビーで展開されるラスト30分は、スパイ映画のごとく緊迫感に満ちています。亡命を手引きしようとするガールフレンドは彼にこう問います。「あなたはどうしたいの?」。ヌレエフは答えます。「自由になりたい」。

映画『ホワイト・クロウ』より
ヌレエフの学生時代の師匠で、彼を自宅に置いてまで面倒をみたプーシキンは、政府に呼ばれて、なぜ彼の愛弟子が亡命することになったのかと問われ、「ダンスのためです」と返します。『ホワイト・クロウ』は、冷戦という、芸術すら政治に利用されるイデオロギーの時代にあって、バレエを徹底的に極めようとして反体制的にならざるを得なかった一人の芸術家の運命を描くものです。
先に紹介した歴史家ギャディスは、アメリカとロシアほどイデオロギー的であった国はなく、イデオロギーは経済的な対立などと異なって、極端になるゆえに、これこそが平和の阻害要因になっていたと論じています。観念や思想は、いつの時代も人々を突き動かします。他方でイデオロギーは人から考える力を奪い去り、その自由を抑圧することにもなります。イデオロギーの束縛を乗り越えるためには、自分にとっての真実を見つけ出し、それに忠実に生きることが必要だということを、『僕らは希望という名の列車に乗った』と『ホワイト・クロウ』という二つの作品は教えてくれます。そのメッセージは、冷戦が終わり、「新たな冷戦」が始まったとされる今日でも、有効であるはずです。