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連載

宗教――信仰と自由はどう関係しているのか

第11回

吉田徹(同志社大学教授)

 イエズス会の教区を何れの国に組み入れるかという政治的な決断を迫られた枢機卿は、グアラニ族に対し「神の命令」として、教区から立ち去るよう告げます。しかし、ガブリエル神父の布教活動によって信仰心を抱いて平穏な生活を送っていたグアラニ族は、‟それは神の意思ではない”と、枢機卿の提案を拒否します。メンドーザも、ガブリエル神父の反対を押し切ってグアラニ族とともに、排除を試みる軍隊と戦うことを決意します。

 ここに宗教が人間に与える重要な要素、すなわち信仰によって運命に立ち向かう強さとともに、信仰ゆえに与えられる自由を見て取ることができます。

「自由とは、キリスト教的なメッセージの最初に来るもの」といったのは、コロナ禍でリーダーシップを発揮したドイツのメルケル首相です。彼女は理系出身として知られていますが、他方で敬虔なクリスチャンでもあります。メルケルは、神が人間を自由な存在として創ったのであれば、自分の果たすべき役割が何であるのかを考える自由が生じることになり、そこから人間は行動する責任を持つのだと論じます(*2)。その自由を自らの手で取り戻したのは、『その手に触れるまで』のアメッドも、『ミッション』のメンドーザも、方向は違えども、同じです。このように、信仰は人々の思考や行動を束縛するのではなく、自由を与えるという機能も持ちます。

 この“絶対的なる存在”を措定することで余儀なくされる自己反省、そしてそこから生まれる自由こそ、宗教の核心のひとつであるということを、次の作品で確認してみましょう。

 

神との対話――『ジャンヌ・ダルク』

 パリのルーブル美術館の近くに、馬にまたがった黄金に輝くジャンヌ・ダルクの銅像があります。14世紀から続いたフランスとイングランドとの間の百年戦争で、神の啓示を受けたとしてフランス軍を率い、イングランド軍を駆逐したことで知られる女性です。リュック・ベッソン監督がこの歴史上の人物を描くのが、『ジャンヌ・ダルク』(1999年)です。ベッソン監督のミューズ、ミラ・ジョボヴィッチをジャンヌ役に配し、脇役にはジョン・マルコヴィッチ、フェイ・ダナウェイ、ダスティン・ホフマン、ヴァンサン・カッセルなど豪華俳優陣で固めた作品です。ベッソン監督といえば、『ニキータ』(1990年)や『レオン』(1994年)といった実存主義的なアクション映画が思い起こされますが、『ジャンヌ・ダルク』は、彼の作品の中で最も理知的な作品のひとつに数えられるでしょう。

 15世紀初頭、フランス北部のほとんどはイングランドの支配下にありました(ちなみにブルゴーニュ地方でウィスキーの蒸留所が多いことと、この地がイングランドの支配下にあったこととは無関係ではないでしょう)。ところが、ジャンヌの活躍をきっかけに、フランスは15世紀半ばには領土を回復、その後のフランス絶対王政の基盤が作られました。ジャンヌはフランスの救世主として、その功績を死後に称えられ、20世紀になってバチカンから聖人として列聖された英雄です。

 映画では、ジャンヌが幼い頃から神の啓示を受けていた様子が描かれます。17歳になった彼女は、自らが聞いたという神の声を伝達するためシャルル王太子(後のシャルル7世)に謁見を求めます。カトリック教会が絶大的な力を持っていたこの時代、王太子が国王となるには教会による戴冠式を行う必要がありました。フランク王国の初代国王のクローヴィスがランス大聖堂で戴冠式を行ったことから、正統な国王となるためには、イングランドの支配下にあるランスを奪還しなければなりません。ジャンヌは、イングランド軍を打ち負かし、ランスでの戴冠式を実現させると王太子に約束します。彼女の信念を信じた王太子は彼女に軍隊を与え、こうしてパリ南部の要衝オルレアンの奪回作戦が始まります。

映画『ジャンヌ・ダルク』より

 この1時間以上にわたる残酷な肉弾戦も、この映画の見所のひとつになっています。ジャンヌは自ら前線に立つことで士気を失っていたフランス兵を鼓舞し、多大な犠牲を出しながらも、オルレアンの奪還に成功します。

 こうしてランスでの戴冠式が実現し王太子は、シャルル7世としてフランス国王となりますが、王はイングランドとの和平交渉を優先させるため、ジャンヌを見捨てることになります。捕虜となり、イングランドに囚われたジャンヌは異端審問にかけられます。そのときに牢獄で行われる、ジャンヌと神と思しき存在(以下“神”)との対話は、この作品のもうひとつの見所です。この“神”は徹底してジャンヌを突き放します。神の啓示を受けて自分は戦ったのだというジャンヌに、“神”は「何様のつもりだ? 善悪の区別ができるのか? お前は神か?」「神がお前などを必要とすると思うか?」と畳みかけます。

 ここには、キリスト教の本質が示されています。キリスト教では、この世を創った神は人格を持った全知全能の存在ですが、それゆえ、人間は神の意思や本意を知ることはできません。神に似せて作られた不完全な存在である人間にとってできることといえば、様々な証言や経験が書かれた聖書を読むことで神の意思を感じ、赦しを乞い、その意図が何であるのか、祈りという行為を通じて解釈することだけです。神の意思を受けたとするジャンヌは、それが本当に神の意思なのかどうか、証明する術は持ちません。

 ジャンヌは反論します――「私はいつも神に忠実で、御言葉に従い頼まれたことも実行した」。すると“神”は次のように返します。「神がお前に頼み事を?」。この意地悪な“神”はジャンヌが信じたという啓示をことごとく論破していきます。ベッソン監督は、ヨブが神に信仰を試される聖書の「ヨブ記」にこの対話のヒントを得たに違いありません。すなわち、人間にとって神は問いかけの存在でしかあり得ず、それゆえ人間は神から常に試される対象でしかないのです。

 もっとも、このような神と人間との間に非対称性があるからこそ、人は神と対話し、対話に仕向けるのがキリスト教の特徴です。例えば――ジャンヌが幼い頃に経験したように――大変な試練を経験したとして、なぜそれが神の意思によって自分の身に降りかかったのか、人が推し量ることはできません。できることは、それが神の意思であることを知りつつ、なぜなのかを問い続けることしかありません。

 作中に現れる“神”を演じるダスティン・ホフマンの配役は、クレジットでは「良心(conscience)」と記されています。囚われの身となって心身ともに弱まったジャンヌが神の存在証明を求めて良心の糧を求めたのは、彼女の信心が弱まったことの証しでもあるでしょう。ジャンヌはもはや神に問われる存在ではなく、逆に神を問う存在へとすり替わってしまったからです。劇中のジャンヌは、幼い頃から事ある度に教会に懺悔に赴き、神の赦しを得ないと気が済まない少女としても描かれています。異端審問においても、ジャンヌは大司教に告解を懇願しますが、魔女として処した審問団に受け入れられることはありませんでした。火刑を前にした最後の審問で、改悛の誓約書にサインすれば懺悔を聞くという大司教の説得によって、ジャンヌは勢い余って署名してしまいます。それを見た“神”はいいます――「お前が神を見捨てたのだ」。

 信仰に正解があるわけではありません。あるとしたら、それは「信じる」という行為そのもの以外にありません。しかしジャンヌは土壇場で信心を捨て去り、神に正解を求めようとしました。それゆえ、彼女に真の良心の言葉が届けられることになります。それを聞いたジャンヌは自らの魂を自らの手で救うために、処刑されることを自らの意思でもって選び取ることになります。

 

 神から与えられた良心に従うかどうか。その自由をどのように活かすのかは人間次第です。信仰を生きるには、その分、人間の側も強き存在であることが求められます。もし現代において宗教的なものが広がっているのだとすれば、それは人間の自由が広がり、そしてその自由の活かし方を弱き人間が持て余していることの証左なのかもしれません。その自由をどのようにこれから活かしていくべきなのか――神はそれを見守り続けることになるでしょう。

著者情報

同志社大学教授

吉田徹

よしだ とおる

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。

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