imidas - 情報・知識&オピニオン

連載

『いのちの政治学 リーダ―は「コトバ」をもっている』刊行記念対談・ 危機の時代と「いのちの政治」~労りのコトバが聞けなかった国で

中島岳志(政治学者)

若松英輔(批評家・随筆家)

(構成・文/仲藤里美)

中島 「利他プロジェクト」の中では、若松さんと一緒に「弔い(とむらい)」をテーマにした研究会も始めましたよね。利他と弔いって、何の関係があるんだと思う人もいるかもしれませんが、私には「弔いこそが利他だ」という、言語化できない確信が当初からありました。
 それは、今若松さんが言ってくださったように、私たちは多くの無名の死者から与えられた、もう誰によるものかも分からないようなさまざまな恩恵の上に生きていると思うからです。そして、そのように「与えられている」ことに気づいていくことが、死者たちを利他の主体として浮上させる。つまり、自分たちが死者とともに生きているということをしっかりと自覚する、その「弔う」という行為こそが、実は利他の循環を生み出す重要な起点になるという感覚があるんですね。今回の『いのちの政治学』も、そうした感覚に基づいて歴史を遡行(そこう)していった本のような気がしています。

「数量化」によって失われるもの

中島 もうひとつ、「いのちとは何か」という問題も、この本の重要なテーマになりました。本のタイトルにも使ったひらがなの「いのち」という言葉は、生命的なものを意味する漢字の「命」よりも幅広い、人間の尊厳なども含み込んだものを意味しています。だから、命は生きているけれども、いのちの炎は消えてしまっているということはあり得るし、その逆に、身体的には亡くなっていても、いのちは生きながらえ、闊達に活動しているという場合もある。若松さんとの対話を通じて、その問題を考えたいという思いが強くありました。

若松 「命」と「いのち」とは同じではないということは、今回のコロナ危機において私たちが直面した事実でもあったと思います。たとえば、感染者数が減っている時期においては、私たちの身体的な生命は少し安心できる状況にあるかもしれない。しかし、いのちの危機は依然、続いている。少なくともリーダーは常にそう考えなくてはならないと思うのです。なのに、そうした感覚がこの国のリーダーたちにはいつからなくなってしまったのだろうと、この2年間ずっと考え続けていた気がします。

中島 感染拡大が始まった最初のころは特に、命の数値ばかりが語られていましたよね。東京で陽性者が何人、全世界で死者が何人というふうに、すべてが「何人」で片付けられていた。そのことに、私自身も非常に傷ついていた部分があったように思います。
 今でも、私たちもつい「ああ、ずいぶん感染者が減ったね、1日30人を切った」などと言ってしまうけれども、本当はその「30人」の一人ひとりに家族がいて生活があり、いのちがあるわけです。それを統計的に、命の数値だけで判断しようとする「命の統計学」みたいなものに対抗して、「いのちの政治学」をどう立てればいいのかというのが、私たちの対話の起点になったと思います。

若松 おっしゃるとおり、私たちはしばしば命を数量化します。しかし、いのちのほうは徹底的に質的なものであって、数量化されることを拒む。にもかかわらず、政治はそのいのちをいつからか見なくなって、人を数値化して束ねることによってのみ処理するようになってしまったのだと思います。
 ナチスドイツは強制収容所に新しく囚人がやってくると、まず衣服を脱がせ、所持品を奪って、新しい囚人服を着せたといいます。そして、その囚人服には囚人番号が付いていた。そういう現実を私たちは70年あまり前に経験しているにもかかわらず、「数量化の恐ろしさ」を忘れてしまっている。もっと言えば、数量化することで何が失われるのかということを、もしかしたら現代人は忘れつつあるのかもしれないと思います。

中島 イギリスがインドで植民地支配をしていたときも、最初にやったのは「数を数える」ことでした。つまり国勢調査なのですが、カーストなどのカテゴリーごとに、そこに何人の人が含まれるかを、徹底して数える。それがそのまま徴兵と徴税の単位になっていくわけです。要は、机の上で人数を数えて合理的統治をやるというのが、近代の統治技術だったんですね。
 これは、言い換えればいのちを消していく作業です。人間を個性なき均質化した存在として数値化し、道具化していく。こういう政治のあり方を、コロナは非常に如実にあぶり出して見せた。毎日「何人が亡くなった」と告げる数字の羅列を見ながら、「いのちが消えていく」ということを、ずっしりと重く感じていました。

リーダーは、信頼される人物でなくてはならない

中島 本の中で取り上げた人物についても少しお話ししたいのですが、たとえば私たちが最初に注目したのが聖武天皇です。今の私たちと同じように疾病という災害に直面したリーダーが、どのように行動したのかについて議論をしました。
 コロナが始まってから私が読んで感動した文章の一つが、この聖武天皇の出した「大仏建立の詔」でした。多分、中学校の社会化の授業か何かでも習ったと思うのですが、今読むと「なるほどな」と思わされる、見事な文章です。
 当時は疾病だけでなく、地震や干ばつなどあらゆる災害が相次ぎ、人が次々に亡くなっていました。聖武天皇は、それはまず「自分のせいだ」と考えるんですね。つまり、「自分に徳がないから、このような災害が起こるのだ」というわけです。
 彼が大仏建立を計画したことに対して、「大変なときにそんな個人の趣味みたいなことを、しかも人民に苦役(くえき)をさせてやろうとするなんて」と批判する人もいるのですが、まったくそういう意図ではないんですよね。詳しくは本を読んでいただければと思うのですが、彼はこの事業は人間だけではなく草・木・動物、あらゆる生きとし生けるものがことごとく栄えんことを望むものである、と述べている。そしてそこに、誰もが主体的に取り組みながら、みんなでつながっていく。そのプロセスこそが大仏建立であると言っているわけです。本当に深い次元から出てきているコトバだと感じました。

若松 聖武天皇のところでは、彼を支えた妻の光明皇后という存在の重要性についてもお話ししました。聖武天皇だけでなく、今回の本で取り上げたリーダーたちには必ず、同じような存在があった。必ずしも伴侶とは限らないけれど、いろんなかたちでそのリーダーを支えた人がいる。ですから私は、リーダーは人々を引っ張っていく力があるだけではなく、人から信頼される人でなくてはならないと思うのです。その人を深く信頼し、場合によっては二つの「命/いのち」を懸けてくれるような人が出てこないと、その人はリーダーになることはできないのではないでしょうか。

中島 そうですね。たとえば大平正芳には、盟友・伊東正義という心と心で通じ合ったパートナーがいました。彼がいなかったら、大平は政治家にはならなかったのではないかと思います。

若松 今回の本では取り上げませんでしたが、たとえば二宮尊徳などもそうですね。彼は農村改革の指導者として全国を回り、その方法で600の農村が再生したといわれていますが、それを尊徳一人でやったかといえばそんなことはありません。尊徳の人間性にうたれて「この人に命を捧げよう」という人たちが大勢現れ、尊徳の教えを受けて、全国で農村改革に尽力した。尊徳も聖武天皇と同じで、何か困難にぶち当たったときに、誰かのせいにするのではなく「自分の徳がないからだ」と考える人でした。21日間にわたる断食をしたともいわれています。
「自分の徳がない」というのは、その人のやり方がまずいとかつたないとか、そういうことではありません。その人のあり方よりも、直面している問題のほうが大きいということ。それは、単に能力が不足しているということとも異なります。今の自分のあり方では、この大きな問題に立ち向かうことができない。だから、自分自身も生まれ変わって、変貌しないといけないということだと思います。聖武天皇も尊徳も、そうして壁にぶち当たっては、新たに生まれ変わることのできる人だったのではないでしょうか。
 今のリーダーも、口では「不徳のいたすところです」などと言いますが、生まれ変わろうなどとは思っておらず、なるべく今のままでいようとします。そうではなくて、自分自身が生まれ変わらなきゃだめなんだということを明言してくれるリーダーが出てきてくれるといいなと思っているのですが……。

一個の人間の存在が、世の中を変えていく

著者情報

政治学者

中島岳志

なかじま たけし

1975年大阪府生まれ。専門は南アジア地域研究、近代日本政治思想。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授に。『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、2005年に大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け』(新潮社)、『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)など多数。幅広い評論活動を行っている。

批評家・随筆家

若松英輔

わかまつ えいすけ

1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選。16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞を受賞。詩集『見えない涙』にて第33回詩歌文学館賞(18年)を、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)で第16回角川財団学芸賞(18年)及び、第16回蓮如賞(19年)を受賞している。近著に『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書)、『詩と出会う 詩と生きる』(NHK出版)、『本を読めなくなった人のための読書論』『いのちの巡礼者 教皇フランシスコの祈り』(ともに亜紀書房)などがある。

関連記事

新着記事

imidasの更新情報をお届けします。