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連載

保守思想入門

第13回 日本人の「規準」はどこにあるのか?——福田恆存と保守思想

浜崎洋介(文芸批評家)

Ⅱ「保守すべきもの」の困難——江藤淳と三島由紀夫、そして福田恆存

 

1960年日米安保闘争(写真:ZUMA Press/アフロ)

 たとえば、この戦後保守思想の困難を最も明確に自覚していた文学者の一人に、1967年(昭和42年)に『成熟と喪失――〝母〟の崩壊』を書いた江藤淳がいました。
 六〇年安保闘争時には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、開高健、羽仁進らと共に「若い日本の会」に参加し、抗議集会で声明を発表するなど、一時は進歩的知識人の近傍で活動していた江藤淳ですが、しかし、安保騒動の翌年、『小林秀雄』(1961年)を書くあたりから戦後左翼(進歩派・リベラル)とは一線を画しはじめ、『成熟と喪失』を刊行する頃には、すでに「保守」の姿勢を鮮明に示していました。
 しかし、ほかならぬその『成熟と喪失』においてこそ江藤淳は、「戦後文学」の空虚を——1950年代(占領終結)に登場してくる「第三の新人」(安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三など)の文学の弱さを——、つまり、「保守すべきもの」の一切が消え去ってしまった戦後日本の空虚を語らざるを得なかったのです。

「占領時代には彼ら〔アメリカの占領軍≒マッカーサー〕が『父』であり、彼らが『天』であった。〔中略〕しかし占領が法的に終結したとき、日本人にはもう『父』はどこにもいなかった。そこには超越的なもの、『天』にかわるべきものはまったく不在であった。もしもその残像があれば、それは『恥かしい』敗北の記憶として躍起になって否定された。この過程はまさしく農耕社会の『自然』=『母性』が『置き去りにされた』者の不安と恥辱感から懸命に破壊されたのと表裏一体をなしている。先ほどいったように、今や日本人には『父』もなければ『母』もいない。そこでは人工的な環境だけが日に日に拡大されて、人々を生きながら枯死させて行くだけである。」『成熟と喪失—〝母〟の崩壊』講談社文芸文庫、〔 〕内引用者補足—以下同じ

 ここで、「もしもその残像があれば、それは『恥かしい』敗北の記憶として躍起になって否定された」と言われているのは、もちろん戦前の「国体思想」(天皇)の否定を意味しており、「農耕社会の『自然』=『母性』が『置き去りにされた』者の不安と恥辱感から懸命に破壊された」というのは、昭和30年代(1955年~1965年)の高度経済成長に伴う急激な近代化を意味しています。しかし、それなら、戦後日本人には、従うべき超越的原理(父)も、自分を包み込む日本的自然(母)も残されてはいないということなのでしょうか。少なくとも、当時、「劣等生・小不具者・そして市民」(服部達『われらにとって美は存在するか』)だと言われていた「第三の新人」には、それを否定する材料は示されていませんでした(ただし、江藤は、庄野潤三だけは例外として扱っています)
 しかし、だからこそ江藤淳は、「保守すべきもの」を「ここではないどこか」として、つまり、奪還すべきロマン的対象として語るしかなかったのかもしれません。「かつて日本に在り、今はないきずな、、、とは、おそらく国家から各個人に発せられる強力な義務の要請である。あるいは、個人が私情をおさえてその要請に応えるときに生ずる劇である」(『アメリカと私』1965年)、「私は父の姿の背後に想い描くことのできるあの衰弱した国家のイメイジを、あの耐えつづけている国家のイメイジを一度も裏切りはしなかったし、今後も裏切らないであろう」(「戦後と私」1966年)といった言葉は、歴史に裏付けられた人間の自信というより、過去を奪われてしまった人間の悔しさと弱さ、そして、そのルサンチマンをバネにしたロマン主義的傾向を示しているように思われるのです。
 そして、その点において、江藤淳との間で批判の応酬を繰り返していた三島由紀夫もまた、江藤淳と同じ「弱さ」(ロマン主義)を病んでいたのだと言っていいでしょう。たとえば、その自決の直前(1970年)に書かれた三島由紀夫の言葉に、歴史に支えられた文学者の自信を読み取ることはできるでしょうか。

「二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」「果たし得ていない約束—私の中の二十五年」1970年7月7日初出、『文化防衛論』ちくま文庫

 ここから三島由紀夫は、戦後、孤独になってしまった「われ」を、戦前にあったはずの「われら」に媒介しようとして、「菊」(文化)のために「刀」(軍事)を持て(=死ね)と下命する「文化概念としての天皇」を召喚することになります。が、三島自身が、「僕は幻の南朝に忠義を尽しているので、幻の南朝とは何ぞやというと、人に言わせれば、美的天皇制だ」(「文武両道と死の哲学」福田恆存との対談、1967年)と語っていたように、そこにはやはり「ここではないどこか」の響きが入り込んでいたのでした。戦後という時代そのものが、戦前(過去)の否定から始まっている限り、否定の否定によってしか「保守すべきもの」が見出せないというジレンマ……、江藤淳にしても三島由紀夫にしても、戦後に「保守」を名乗ることの困難はここにあったと言えます。
 しかし、そのなかにあって一人だけ、いま、ここにある「生き方」のなかに文化を見出そうとする保守思想家がいました。三島由紀夫(1925年生)よりは一回り、江藤淳(1932年生)とは二回り近く歳上の文芸批評家=福田恆存(1912年生)です。
 たとえば、その晩年、『福田恆存全集』(全8巻・1987年~88年)に付した「覚書」のなかで福田は、三島由紀夫との思い出を綴って次のように書いていました。

「……私は三島に『福田さんは暗渠で西洋に通じてゐるでせう』と、まるで不義密通を質すかのやうな調子で極め附けられたことがある。〔中略〕それに對してどう答へたか、それも全く記憶にないが、私には三島の『国粋主義』こそ、彼の譬喩を借りれば、『暗渠で日本に通じてゐる』としか思へない。ここは『批評』の場ではないので、詳しくは論じないが、文化は人の生き方のうちにおのづから現れるものであり、生きて動いてゐるものであつて、圍ひを施して守らなければならないものではない、人はよく文化と文化遺産とを混同する。私たちは具體的に『能』を守るとか、『朱鷺』を守るとか、さういふことは言へても、一般的に『文化』を守るとは言えぬはずである。」「覚書六」『福田恆存全集 第6巻』文藝春秋

 ここには、福田恆存と三島由紀夫(あるいは江藤淳)との違いがクッキリと示されています。三島由紀夫が、いま、ここにはない「文化概念」をロマン的に追い求めているのだとすれば——それが「暗渠で日本に通じてゐる」という言葉で指摘されている事態でしょう——、福田恆存は逆に、いま、ここにある生において、おのずから現れているもののなかに「文化」を見ようとしています。言い換えれば、福田は「文化」を、外から眺められるモノ(目指される全体性)として追い求めるのではなく、つねにすでに経験されている全体的なコトとして味わい、それを生きているのだということです。
 それは、本連載の第2回「『保守思想』とは何か—『伝統』と『実践知』について」でも引いた福田恆存の「私の保守主義観」(1959年)の言葉とも矛盾しません。福田は書いていました、「私の生き方ないし考え方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ」、「保守派はその態度によって人を納得させるべきであって、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、またそんなことは出来ぬはずである。〔中略〕保守派が保守主義をふりかざし、それを大義名分化したとき、それは反動になる」と。
 では、イデオロギーに寄り掛からない保守的な「生き方」とは、一体どのようなものなのでしょうか? 詳細は次節に譲りますが、その手掛かりは、たとえば、福田恆存の、戦中と戦後とを跨ぐ次のような経験のなかに示されていたように思われます。

「年譜の昭和二十年三月に、「あらゆる公職を辭し、防空壕掘りに専從」とあるが、戦争は年内で終ると見た私は自分の痩腕に精一杯の力をこめ、新しく移つた麹町二番町の家に二つの防空壕を掘つた。庭の方は書物と文房具用のものであり、その文房具のうちには、萬年筆、鉛筆、消しゴムの類ひの、どんな零細な物でも見逃さず、びつしり詰め込んで、普段は出し入れ無用とばかり、上には土を高く盛り上げ、濕氣で本が蒸れることを恐れて、只一箇處だけ、一尺角ぐらゐの穴を作つて、天気のいい時には蓋を開けておくやうにした。〔中略……戦後に〕掘出したものは殆ど全部が無事で、消しゴムなどは、その後五年位はまだ使へ、机上にころがつてゐるのを見て、私はにやりとほくそ笑んだ、B二十九と一人で戦つて勝つたやうな氣になり、密かに留飲を下げたものである。」「覚書一」『福田恆存全集第1巻』文藝春秋

 ここで重要なのは、福田恆存の「生き方」が、戦前と戦後で断絶していないことです。もちろん社会は変化します。が、だからといって、自分の「生き方」を変えなければならない理由はない。いや、逆に、自分の「生き方」に筋を通そうとすればこそ人は、社会の変化に引き摺られない強さ——社会に対する適切な距離感とその対処法——を持つことができるのではなかったでしょうか。言い換えましょう、消しゴムとの有機的な絆——他者との持続的なカップリング——を守ることができたからこそ福田は、戦争にも公職にも囚われることなく、さらには戦後イデオロギーにも囚われることなく、「B二十九と一人で戦つて勝つたような氣になり、密かに留飲を下げ」ることができたのではなかったでしょうか。自分の「生き方」を守るとは、そのまま自分の持続を守ることであり、同時に、最も親密な他者との関係を守ることでもあるのです。
 その点、どんなに「保守すべきもの」が希薄になったのだとしても、福田恆存において、その空虚を埋め合わせるための政治イデオロギー——戦後民主主義(丸山眞男)や、国家(江藤淳)や、天皇(三島由紀夫)など——が呼び出されることはありませんでした。本連載第9回「ウィトゲンシュタインと保守思想—語り得ないものとしての『伝統』」の言葉を借りれば、福田恆存にとって「保守」とは、やはり、イデオロギー以前の〈生き方=文化〉であり、「語り得るもの」ではなく「示されるもの」だったのです。
 では、いま、ここで示される「生き方」の善し悪しは、どう判断されるのか。ここに、「保守すべきもの」の「規準」をめぐる福田恆存の思考が示されることになります。

著者情報

文芸批評家

浜崎洋介

はまさき ようすけ

1978年埼玉生まれ。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。京都大学大学院特定准教授。2022年『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)で、第31回山本七平賞奨励賞受賞。そのほかの著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉イロニー・演技・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文藝春秋)、『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(NHK出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』『日本人の「作法」 その高貴さと卑小さについて』(いずれもビジネス社)がある。

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