日本の大衆にとって〝知〟とは何だったのか?―タイパ・コスパ時代の「教養」と「修養」前編
(構成・文/イミダス編集部)
真幸 日本はバブル崩壊後から、社会がかなり落ち込んでいるでしょう。そういう世の中だと何か自分たちの生き方に根本的な問題があるんじゃないか? という気持ちもあって、自分の生き方を根っこから問い直す、鍛え直さないといけないという人が多いんだと思う。
絢子 高度経済成長の後やバブル崩壊後に流行ったのが、仏教をわかりやすく解説した本だったり、五木寛之さんの人生論的エッセイだったりします。豊かさのなかで見失ったものがあるのではないか、ということにも関心が向けられたんです。これはいまも大きくは変わっていなくて、この資本主義社会にどっぷり浸かっていいのだろうかという思いが、何か意味のあるものを読まなきゃという態度につながっているのでしょう。
その一方で、かつての日本企業には集団で「一般教養」を身につけさせる「社員研修」のようなスタイルがありましたが、いまの企業にはその余力がなくなりつつあるのではないでしょうか。マナーや人とのコミュニケーションの取り方を会社で教わることも、上司や先輩に「この本を読んだらいいよ」と薦められることもなくなって、「修養」的な人間関係のハウツーや、「教養」的な哲学や思想をコンパクトにまとめた本や動画が人気です。これらは、資本主義社会を生き抜き、競争から脱落しないための頼みの綱にもなっています。社会の経済的な成長が難しく、切実な焦りや不安があるなかで、ビジネスで役立つ知やハウツーが求められている。最近は、初めから大事なところにマーカーが引かれている本もありますよね。
真幸 ありますね(笑)。大事なところは読者が決めることだと思うけどね。
絢子 「教養」を身につけるにも「修養」するにも時間が必要です。しかし、いまはすぐに目に見える成果が求められてタイパやコスパが重視され、忙しく働くなかでなんとか30分を確保して学んだり、自分を高めようとしたりしている人がいる。そうした人たちには、大事な箇所がはっきり示されていた方がよいのでしょう。
真幸 いつの時代でもそうだけど、特に若い人はやっぱり〝この世界で自分は何者か?〟 みたいな疑問をみんな感じているんだよね。かつてだったら、難しい哲学本を読むことだったと思うんですけど、いまはアニメなどのサブカルチャーが代替していると思うんです。
絢子 西洋的な世界や知識への憧れが入っているという点でも、サブカルは「教養」と共通しますね。漫画やアニメには、西洋風な容姿の登場人物や、ヨーロッパの思想や文化をモチーフとした世界観を描いたものもありますね。これらは、かつての「教養」にあった「西洋」への憧れと近い気がします。
真幸 直接的に海外のものをテーマにしていなくても、日本人から見える西洋的なかっこよさみたいなものが強調されて描かれていますね。サブカルチャーは、「教養」や「修養」の代理的な側面があって、大学の授業では教えてくれない「世界」との向き合い方を教えてくれる。だけど、現実ではなくフィクションですから、やっぱり満たされないものはあるんでしょうね。フィクションであっても、現実との間に隠喩的な関係とか、寓話的な関係があったりすると、フィクションを媒介にして、現実の「世界」と向き合うことができるようになるのですが、現在の日本のサブカルチャーに蔓延しているフィクションは、現実との関係を希薄化させた純粋なフィクションですからね。

なぜ人文的な〝知〟は人気がないのか?
真幸 いまネットの世界を中心に、ひろゆきという人が人気でしょう。彼は人文的な〝知〟をまったく信用していない人だと思うんです。そういう大学で学ぶようなことは、一切、人生に使えないと考えている。ひろゆきさんの人文的な〝知〟への不信には一理あります。ともかく、そういう世の中で、どうやって成功をつかむか。特に、「コミュ障」みたいなコミュニケーションが苦手な人がどうやって成功するか。ひろゆきさんは、それを説いているように見えますね。おもにネットで情報強者になっていく方法を教えている。実践的なことを言っていて、彼なんかはいまの「修養」を代表している人物に見える。言っていることは、「教養」とは正反対なだけではなく、かつての「修養」とも似ても似つかぬシニカルなことなのですが、しかし、ひろゆき現象は、かつての「修養」の機能的代替物になっている。
絢子 ひろゆきさんとはまた違うのかもしれませんが、お笑いコンビのオリエンタルラジオの中田敦彦さん。大学の授業で「修養」を取り上げた際、関連するものとして彼のYouTubeの動画を学生たちに見せたことがあります。彼は、生き方や自己肯定感を高めるためのハウツーを語り、かつて大学が提供していたようなものをわかりやすく、社会で使える知識として提供している。学生に動画の感想を聞くと、「修養」っぽいという感想と同時に、「宗教っぽい」という感想もあったのが印象的でした。中田さんもひろゆきさんも、宗教者というわけではありませんが、精神面を指導するというスタンスがあります。生き方や精神的な拠り所を求め、かつて宗教に向かっていたような人のニーズにも応えているのではないかと思いました。
真幸 僕らはこの世界のなかで、実用的に役立つかどうかには還元できない部分で動いていることがたくさんある。本当はそこがいいところなんです。たとえば、大学で教えることは、実用的に役に立たないとよく文句を言われる。特に人文系の学問は言われがちですね。本音で言えば、大学で教えていることの99パーセントは実用的には役に立たない。でも、役に立たないからいいんですよ。
絢子 そうですね……。
真幸 大学では、資本主義での成功とは異なる意味での価値観が身につきます。お金儲けには役に立たなくても、何かを知る喜びや、感動がいくらでもある。その価値観が共有できれば、本来的な意味での「教養」も「修養」も復活できる。だけど、それは何のために必要なのと言われてしまうと……。
絢子 ひろゆきさん、中田さんらのコスパよく、実用的で使える知識で生きようという言葉が心に響く。
真幸 そうなんですよ。彼らの言葉は、この資本主義の競争社会で息苦しく生きている人たちに刺さっていると思う。他者とのコミュニケーションが苦手な人たちでも、人生一発逆転ができるぞという気持ちにさせてくれる。
絢子 学校や集団生活でうまくいかない人が、自宅にいながら知識を学べて、さらに生き方も指南してもらい、活躍できる可能性を開いてもらっているとも言えますね。
真幸 そういう意味では、彼らは〝弱者〟に寄り添っている。でもその〝弱者〟は左翼・リベラルが想定しているものとはまったく別です。本来、左翼・リベラルが思想や教養を使って、弱者が冷遇される社会全体の変革を考えるものなんですよね。でも、この景気も伸びない日本のなかで、何も社会が変わっていないので、左翼・リベラルの言っていることが、極端に欺瞞的に聞こえるんですよね。
さっき、かつて会社で「修養」が行われていた話が出ましたが、それは会社だけでなく日本の社会全体がいい方向に向かっているときは説得力を持つ。でも、いまのように一つの会社が儲かっても、社会全体が盛り上がることがない時代だと、自分だけ成功すればいいやという極端な個人主義になっていくんですね。これは日本だけの現象ではないでしょうけど。でも、僕にはその個人主義的な生き方が充実して見えない。その個人主義の内実はルサンチマンやニヒリズムに侵されているようにも思う。
絢子 そうですね。個人主義的な発想は、行き詰まるし苦しいものです。そうなると、自分で考えることができなくて、どうしていいかわからないなかで、誰かにコスパよく、わかりやすく教えて欲しいと考える人が出てくる。
著者情報
社会学者
大澤真幸
おおさわまさち
1958年長野県松本市生まれ。
東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。『ナショナリズムの由来』(講談社)で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』(岩波書店)で河合隼雄学芸賞を受賞。他のそのほかの著書に『世界史の哲学』シリーズ(講談社)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『自由の条件』(講談社文芸文庫)、『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(角川書店)、『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『経済の起源』(岩波書店)など。現在、月刊個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』を刊行中。
社会学者
大澤絢子
おおさわあやこ
1986年、茨城県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。龍谷大学世界仏教文化研究センター、大谷大学真宗総合研究所博士研究員などを経て現在、日本学術振興会特別研究員(PD)・東北大学大学院国際文化研究科特別研究員。専門は宗教学、社会学、仏教文化史。著書に『親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか』(筑摩書房)『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHKブックス)。共著に『知っておきたい 日本の宗教』(ミネルヴァ書房)、『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)がある。