職場のパワハラは、これでなくなるのだろうか?厚労省のパワハラ指針案は問題だらけ
笹山尚人(弁護士)
上司から取引先から雇用主から、職場でのパワハラに悩んでいる人も多いことだろう。2019年にパワハラを防止・対応するための措置を会社側が取らなくてはならないと、義務化されたことをご存じだろうか? 法律はとりあえず決まったが、その具体的な内容は厚労省によって指針として定めるとなっている。その指針案が10月に公表された。労働問題に詳しい笹山尚人さんに緊急寄稿していただいた。

2019年5月29日に成立した改正労働施策総合推進法(以下、この法律を「改正法」という)では、第30条の2において、いわゆるパワーハラスメントに対する措置等を事業主が実施しなければならないと定めています。以前、イミダスの「職場でのパワハラが法律違反になる?」という記事で解説した通り、事業主はパワハラに関して、労働者が平穏に働ける環境作りのための措置を講じなければならないことになりました。その措置の具体的な内容や行政指導のあり方については、厚生労働大臣が「指針で定める」と決められたのです。
これを受けて、厚労省の労働政策審議会では、19年10月21日に厚労省が作成した指針案が提示され、同年12月20日まで広く意見を求めるパブリックコメントが募集されている状況です。
私は、この指針案が素案として提示された時から、重大な問題を含んだ案であることを所属法律事務所のブログで発表してきました。指針案も、素案を踏襲したものであり、その本質的問題に変化はないと考えます。
以下、私の意見を述べたいと思います。
あるハラスメント事案から見えることとは?
以前、私が担当した事案で、次のようなケースがありました。
勤務する支店の責任者(支店長)から毎日言葉の暴力を受けている男性がいました。彼は、営業係長として自らの顧客を回って営業活動をするとともに、4名の部下の営業活動にも上司として監督、指導を行う立場でした。毎朝行われる営業会議の席上で、支店長は、前日の実績や当日の営業係員の行動予定にケチをつけ、叱咤激励をするのが常でした。当然、叱責を受けるのは男性のことではない場合もあるのですが、彼は最終的には必ず叱責されました。なぜなら、叱られる営業係員を指導する立場にあるからです。彼は自らの行動について責められるだけでなく、どうしてきちんと指導しないんだという形で、部下が叱られるたびに自身も叱られたのです。
具体的な言葉は、それほど悪質なものではないと言えるのかもしれません。「どうしてこうなっているんだ」「それじゃ結果が出ないだろ」「営業がわかっていないようだな」「やる気を出せ」、そして「きちんと指導しろよ」。こういった表現は営業成績を上げたいがための指導、叱責と言ってしまえばそれまでかもしれません。叱られる時間も、それほど長いものではなく、せいぜいが10分か15分でした。
しかしこんな状態が半年、7カ月、8カ月と続いていくうちに、その男性は、だんだん営業をしながらビルの屋上を見るようになったと言います。「あそこから飛び降りれば、楽になれるのかな」という思いが浮かび、眠れなくなり、食欲が落ち、意欲が減退しました。仕事でもミスをするようになり、それがまた支店長の新たな叱責を呼びました。
9カ月が過ぎた頃、彼はついに顧客から大きなクレームの入るミスをしてしまいます。支店長から大目玉を食らい、「いったいどうするつもりだ!」と詰め寄られて、彼は思わず「責任を取って辞めます」と言ってしまったのです。
私は、以前先輩として彼を指導したという人物から紹介をされて、このケースの対応を引き受けました。彼が退職すると言ったのはいわば一時の気の迷いであり、こんなことで20年近く勤めて築いたキャリアを棒に振ることはない。退職の意思を撤回し、あわせて支店長の言動をパワハラとして訴えたい、という依頼でした。
会社は、支店長の言動は適正な指示・指導であり、彼の退職を受理したとして全面的に争う姿勢を見せました。実際、裁判となり、結果として彼は職を失いました。
支店長の言葉は、単体として取り上げれば、手ひどいものと言えないかもしれません。上司としての指導の範疇として正当なものであるのかもしれません。しかし、支店長の言葉は彼の職を奪い、心を大きく傷つけました。彼の尊厳を損ない生活を狂わせた支店長の言動は、本当に許せないものでした。そのことを認めず責任を取ろうとしなかった会社もひどいものでした。
しかし、当時は上記の改正法は存在しませんでした。彼の職場にはハラスメントの相談窓口もありませんでした。たまたま退職した先輩が彼のことを気にかけなければ、男性は自死していたかもしれません。
これは、私の記憶に今でも強く残る事案です。この事案から、私は、日常の一見些細な出来事でもハラスメントになり得ること、そして、いったん発生したハラスメントはとてつもない被害を引き起こすことを学びました。
振り返ってみれば、この事案はそう特異なものではありません。我が国の職場では山ほど存在している状況です。だからこそ、今般の改正法等によって定められた措置義務がどれだけ実効性を持つことができるかは、非常に重要な課題となっているのです。
「職場におけるパワーハラスメント」の定義とは?
10月に示された指針案では、「職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって、業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、労働者の就業環境が害されるもの」を「職場におけるパワーハラスメント」の定義である、としています。そのうえで、「客観的にみて、業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導については、職場におけるパワーハラスメントには該当しない」とまで定めています。
私は、そもそもこの定義自体に疑問を覚えています。
例えば、先の支店長の発言は、どうなるでしょうか。これは、営業会議における叱咤激励です。〈業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導〉なのではないでしょうか。現に裁判で会社はそのように主張しました。期間として長期間にわたっていることなので、一定の期間が経過したら「相当な範囲」を超えているとか「適正」ではないとか、そういう区分けができるかもしれません。しかしそれは誰がどうやって決めるのでしょうか。叱咤激励が3カ月続いたら「相当な範囲」を超えるのでしょうか。6カ月でしょうか。1年でしょうか。
このように、グレーな事案は多数あるのです。ですから、職場におけるハラスメントのすべてが、法律に書かれている定義に当てはまるとは限りません。改正法はあくまで、職場におけるハラスメントの一つの典型的な場合について措置等を定めたと理解すべきであり、措置義務対象以外のことであっても、「職場におけるハラスメント」として捉えられるべきです。典型例以外でも、職場や訴訟の場で人格権侵害として違法視される可能性があると考えることが必要です。指針がパワハラの定義をこのように狭く捉えるならば、人権侵害を見過ごし、救済から取りこぼす事案が発生することにつながります。
あえてパワーハラスメントの定義を行うのであれば、「労働者に対して精神的あるいは肉体的な影響を与える言動(嫌がらせ・脅迫・無視)や措置・業務(長時間労働・過剰労働)によって、人格や尊厳を侵害し、労働条件を劣悪化しあるいは労働環境を毀損する目的あるいは効果を有する行為や事実」をハラスメントと捉え、これが使用者の指揮命令の及ぶ範囲としての「職場」において発生する場合に、全体として「職場のハラスメント」と解するべきであり、定義とすべきだ、と考えます(これは、滋賀大学名誉教授の大和田敢太教授による定義を基礎にしたものです)。私は、実際に発生しているハラスメントの状況からして、このように捉えるのが一番正確だと考えています。
パワハラの代表的な6類型に該当しない場合を例示??
指針案では、さらに、いわゆるパワーハラスメントの代表的な6類型に該当する場合と該当しない場合の例示をも行っています。こういった指針案の考え方は、パワーハラスメントの成立する状況を実際上は限定的にしかねないものと思います。
例えば、指針案ではパワハラの定義としている「その雇用する労働者の就業環境が害されること」に該当するためには、「能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること」が必要との考え方を示しています。
ここにも問題があると思います。まず、「当該労働者」に限定する必要があるでしょうか。確かに、改正法の文章には「その雇用する労働者の就業環境を害されることのないよう」とあり、「その」という部分を「当該事業者の」と読むことも可能です。ハラスメントを受けている当の労働者以外の、周辺や同じ職場にいる労働者の就業環境をも考えにいれるべきだと思います。
なぜなら、職場におけるハラスメントは、当の被害者のみならず、周りにいる他の労働者の就業環境をも悪化させていることはしばしば見られるところであり、この事実は皆さんにもよくご理解いただけるのではないでしょうか。
そして、就業環境の悪化について、「能力の発揮に重大な悪影響が生じる」とか「看過できない程度の支障」とかいった条件を設定することは、やはり取りこぼす事案の増大や、深刻な人格権侵害を見過ごすことにつながると考えます。
改正法にある「その」を「当該事業者の」と理解して、周辺や同じ職場にいる労働者の就業環境をも対象としている解釈すべきではないでしょうか。
著者情報
弁護士
笹山尚人
ささやま なおと
1970年北海道生まれ。弁護士。94年中央大学法学部卒業。2000年弁護士登録。第二東京弁護士会に所属。東京法律事務所に入所。主として、青年労働者や非正規雇用労働者の権利問題、労働事件や労働問題を扱って活動している。著書に『人が壊れてゆく職場』『それ、パワハラです』『ブラック職場』(以上、光文社新書)、『労働法はぼくらの味方!』『パワハラに負けない!』(共に、岩波ジュニア新書)、『ブラック企業によろしく』(KADOKAWA)等がある。