オリンピック転落の歴史を振り返る ――「平和の祭典」が腐敗とビジネスに飲み込まれるまで
谷口源太郎(スポーツジャーナリスト)

IOC本部(スイス・ローザンヌ)
東京オリ・パラでの汚職・談合事件
第32回東京オリンピック・パラリンピック(以下、東京オリ・パラ)は、新型コロナウイルスのパンデミックに直面し、開催が2021年7月23日に1年延期されたばかりか、無観客という異例ずくめの大会となった。
国内外から、「中止すべきだ」という声が聞かれるなかで、安倍晋三首相(当時)や組織委員会会長の森喜朗元首相らは、国の威信にかけて大会の開催を決め、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長も、その決定を認めて、大会は実現された。
それから1年後、その東京オリ・パラをめぐるスポンサー契約絡みの汚職事件が発覚。みなし公務員の立場にある高橋治之元組織委理事が受託収賄で、紳士服大手「AOKIホールディングス」の前会長らが贈賄で逮捕される事態となった。
以後も汚職事件は広がり、高橋元理事は4回逮捕され、贈賄罪で15人が起訴された。賄賂の総額は、過去最大の2億円近くに上るとされた。さらに、組織委員会に絡むテスト大会の入札をめぐる談合疑惑が明らかになり、電通などに捜査の手が入った。
なぜ、このような汚職事件や談合疑惑が起きたのか。「平和の祭典」だったはずのオリンピックは、なぜ、どこで、変質してしまったのか。その歴史をあらためて振り返り、探ってみよう。
近代オリンピックの始まり
4年ごとに開催される近代オリンピックは、フランスの貴族ピエール・ド・クーベルタンが呼びかけて1894年に始まったものだ。クーベルタンはその中心に「健全な民主主義」と「平和を愛する賢明な国際主義」という理念を据えた。
彼はある講演で「(オリンピック大会での)出会いを通して人々は彼らすべてにかかわる物事を学び、やがては憎悪を生み誤解を育む無知、野蛮な道程を経て冷酷無比の争いに至る無知から遂に解放されることでしょう」と語っている(ジョン・J・マカルーン『オリンピックと近代――評伝クーベルタン』、平凡社、1988年)。1925年には、「相互理解の増進と友好の精神」や「より平和な世界の建設」「国際親善」などを掲げたオリンピック憲章が制定された。
だがそうして始まった近代オリンピックは、およそ130年の歴史を経るなかで、何度となく、存続が危ぶまれる事態に直面してきた。中でも重大な危機は、戦争によって開催が中止に追い込まれたことであった。
第1次世界大戦で1916年の第6回ベルリン大会(ドイツ)が、日中戦争で1940年の第12回東京大会(日本)が、そして第2次世界大戦で1944年の第13回ロンドン大会(英国)が、それぞれ中止されたのである。
その後も、東西冷戦、南北問題、人種差別など国際的な問題が次々と押し寄せた。1963年には、「IOCの反動性を糾弾し、オリンピックに対抗し、しかも真のオリンピック精神を宣揚する」ことを掲げた新興国競技大会(GANEFO―ジャカルタ)も開催されている。
だが、オリンピックを決定的に危機に陥らせたのは、1980年第22回モスクワ大会のボイコット問題と、それに続く1984年第23回ロサンゼルス大会である。この二つの大会こそが、オリンピックを変質させた最大の転換点だった。
モスクワ大会のボイコット
1979年12月、「ソ連のアフガニスタン侵攻」という報道が世界中を駆け巡る。
モスクワ大会は、翌80年7月に開催される予定だった。同年2月初め、第6代IOC会長のロード・キラニン(アイルランドの著述家、映画製作者、銀行員)に対して、ジミー・カーター米国大統領が突如として大会の中止、あるいは延期を要求する。中東での原油の支配権を確保するためにはあらゆる手段を講じるという強硬な姿勢をとるカーターは、ソ連軍のアフガニスタンをめぐる動きを「侵攻」と断じ、大会中止要求の理由にした。
これに対して、キラニンは、強く反発した。回想録に、以下のように記している。
「私はきっぱりとその大統領のメッセージに答えた。オリンピック憲章の第34条によって、モスクワ・オリンピックを別の年度まで延期することはいかなる事情であれ許されない。また、この時期にきて中止することは、IOCと組織委員会の間で交わされている協定に照らし合わせてみても、正当なる理由もないし、中止すれば契約違反になる。したがってたとえ大統領の要請であっても、これを受けるわけにはいかない」(『オリンピック激動の歳月』、ベースボール・マガジン社、1983年)
そこでカーターは、モスクワ大会のボイコットを宣言。西側諸国にも同調するよう呼びかけた。英国のサッチャー首相がこれに呼応してボイコットを表明したのをきっかけに、カナダ、西ドイツ、日本などもボイコットを決めた(ただし、イギリスではボイコットに反対するオリンピック委員会関係者らが市民の寄付を募って資金を集め、選手団の参加を実現した)。最終的に、大会に参加したのは81カ国、5923選手となった。
キラニンは、こう記している。
「第22回オリンピアード・モスクワ大会の閉会宣言の言葉を述べながら、私は心の中では本当に選手一人一人の手をとって話しかけたい気持ちだった。本来ならばこのモスクワ・オリンピック大会も最高のレベルの競技とともに、友情と国際理解をもたらす場になるはずであった。ところが、いま残されたのは苦痛と涙、そして苦悩と言い知れぬ悔恨の情であった。政治家の手によってオリンピックはズタズタに引き裂かれた―このことが壇上の私の胸の底に暗い影を落としていたのだ」(前掲書)
カーターに同調した西側諸国のモスクワ大会のボイコットが、次の大会に対する東側諸国の報復的なボイコットを呼ぶのは確実だった。この露骨な政治介入を前に、世界中から「オリンピックは終わった!」との声が広く上がった。
この出来事は、オリンピズムの根本原則であった「平和な社会の推進」や「政治的中立」という理念を打ち砕き、オリンピックの存在そのものを否定するものだった。

1980年モスクワ大会の開会式で入場行進をするアフガニスタン選手団
国際商品化されたオリンピック
そして、続いて1984年に開かれた次のロサンゼルス大会が、オリンピックを決定的に変質させてしまう。
1978年、アテネのIOC総会で、1984年の第23回ロサンゼルス大会の開催が決まった。実は、立候補したのはロサンゼルスだけだったので、IOCは「もしロサンゼルスが降りたら、オリンピックは一気に存亡の危機へと陥ってしまう」という切羽詰まった立場に追い込まれていた。その弱みに付け込むようにロサンゼルス側は、すべてマイペースでやれると強気になり、とんでもない内容の申請書をIOCに突きつけた。
第1に、IOCの規則、伝統、儀典などはほとんど考慮せず、自己流でやる。
第2に、ロサンゼルス市当局は法令でオリンピックへの公金支出を禁止したので、実業家の集まりである組織委員会が、大会が黒字になるように運営する。
第3に、大会から得られた利益は米国国内のスポーツ振興に使う。
要するに、ロサンゼルスは利潤を追求する企業によってオリンピックを運営することを鮮明に打ち出したのだ。
弱みを握られているIOCは、総会で、ロサンゼルス市が求めた「自己流」こそ却下したものの、「組織委員会が黒字になるように運営する」ことは認めてしまった。そのために「商業主義オリンピック」と言われ、国際商品化されることでオリンピックそのものが理念や理想のない巨大なスポーツショーへと根本から変質させられることになった。
このロサンゼルス大会によって、オリンピックは市場経済に飲み込まれてしまった。まさしくオリンピック史上最大のエポックと言って差し支えないだろう。
スポンサーと放送権が2本の柱
著者情報
スポーツジャーナリスト
谷口源太郎
たにぐち げんたろう
1938年鳥取市に生まれる。早稲田大学中退。講談社、文芸春秋の週刊誌記者を経て、85年からフリーランスのスポーツジャーナリスト。新聞、雑誌、ラジオ・テレビを通じて、スポーツを社会的視点から捉えた批評を手掛ける。著書に『日の丸とオリンピック』(文芸春秋、1997年)、『スポーツ立国の虚像 スポーツを殺すもの』(花伝社、2009年)、『オリンピックの終わりの始まり』(コモンズ、2019年)など多数。