李哲にとっての“復讐”
木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)
検事による取り調べでは、起訴内容を認めなければ再び南山に送り返すと脅された。法廷では自分を拷問にかけたKCIAの取調官が背後に立って、無言で圧力をかけてきた。恐怖に支配された李哲はただ「はい」と罪状を認めることしかできなかった。その結果、一審で死刑判決を下される。されるがままであった。
しかし、ここから李哲は覚醒する。このままではスパイという汚名を着せられて処刑されてしまう。それは国家権力による捏造を許してしまうことになる。祖国をそんな社会にして良いはずがない。人間として真実を伝えなければならない。使命感が打ちのめされた心身を動かした。勇気を振り絞り、二審から一転して、「起訴内容は事実ではない」と主張した。証人を呼び、法廷で何度も毅然として自分は無実であると声を上げた。
しかし、二審でも、そして最終審である三審でも判決は覆らなかった。死刑の判決が下されると独房から、雑居房に移される。最終審が終われば、あとはもういつ死刑が執行されてもおかしくはない。実際に、74年の人民革命党再建委員会事件では、逮捕された8人が最終審が終わって1日も待たず、18時間後に処刑されたという例がある。同じ獄舎にいた多くの人々も処刑されていった。最も多いときは1日6人、2日連続で12人に死刑が執行された。学生でもまったく容赦は無かった。
まったくの無実であるにもかかわらず、明日にもその命を奪われてしまうかもしれない境遇に置かれ、並みの人間ならば心が壊れてしまってもおかしくはない。
それでも李哲は気高い精神を保った。その胆力はどこからくるのかを聞いた。
「不安な気持ちはありましたけど、たとえ死刑が執行されたとしても、どうせ人間は一度は死ぬ、それならここで死ぬのも、立派に死ぬのであれば、それはそれでいい。たくさんの愛国者の先輩たちが、この中で死んだのだから、その後ろにくっついていくだけでも、名誉なことだと思っていました」
死刑を目前にした李哲のひととなりがよく伝わるエピソードがある。ある日、舎棟外の掃除を担当している受刑者が、恐る恐るやってきて伝えた。
「兄さん、今日死刑場を掃除しに行ったら、棺桶が重ねてありました。見たらそこに兄さんの名前がありました」
「わかった。教えてくれてありがとう。この話はほかの人には絶対にするな」
いよいよ、執行が迫っていることを嫌でも突きつけられたが、周囲にはショックを与えたくなかった。
一方、日本では熊本の人吉高校の同級生たちが、李哲の逮捕を知り、救援会を組織してくれていた。一審判決後に外部の人間と面会できるようになると母親が来て、わずか3分の面会時間の中で、「高校のお友達があなたのために動いてくれているから、しっかりがんばれ」と励ましてくれた。拘置所に送られてくる手紙の検閲や収奪は厳しかったが、支援の声は確かに獄中に届いた。差し入れの本の表紙裏に「李哲さんを助ける同級生の会」と読める、ごくうっすらと捺された青いスタンプを見つけたときは、全身から力が湧いてきた。監視の目からは逃れ、しかし李哲の目にはこのメッセージが触れるようにと、ギリギリの塩梅でスタンプを捺してくれた仲間のことを思うと胸が熱くなった。
「日本の仲間がみんな、心配して見守ってくれている。みっともないところを見せられない」という思いが李哲を支えた。

父母や婚約者にまで降りかかる苦難
それでも国家権力は李哲の大切なものにまで次々と襲いかかった。KCIAが卑劣にも名前を挙げて脅迫の材料に使った婚約者の閔香淑(ミン・ヒャンスク)を逮捕したのである。罪状はスパイ幇助、そして不告知罪。スパイ行為を助け、告発しなかったというものである。李哲のスパイ行為自体が捏造であるから、これもまた完全なでっちあげである。閔香淑は3年6カ月の実刑判決を受けた。
熊本にいた李哲の父は息子の婚約者までが逮捕されたという一報にショックを受けて倒れてしまった。そしてその40日後、まさに李哲と閔香淑がソウル拘置所に送られた日に息を引き取った。
婚約者とその母親に苦難が及ぶことを恐れる一心で捏造された陳述書にサインをしたのにもかかわらず、結果として婚約者は獄に送られることになってしまった。その無念さ、口惜しさはいかばかりであっただろうか。
閔香淑にすれば、巻き込まれた事件である。軍事独裁の下で自身の安全を考えて、死刑囚となった被告と婚約していたことへの後悔を口にしたとしても誰が責められるだろう。しかし、閔香淑は恨むどころか、一切のくもりもブレもなく李哲を信じ愛し続けた。李哲と自分の裁判のときも、李哲が不利になるような証言は一切せず、「李哲は誠実な男です」「私は後悔もありません」と主張して信念を貫いた。
公判を終え、李哲と同じ護送車に乗ってソウル拘置所に戻った閔香淑は、女子舎棟に連れて行かれるために車を降ろされた。歩き始めると、突然、護送車の方を振り向き、車の最後尾に座っている李哲に向かって、手錠をしたまま両手を振った。それは「これからもずっとあなたを信じているから」という無言のメッセージだった。
李哲の母親もまた証人として出廷した裁判で心をズタズタに傷つけられた。二審で懸命に息子の無実を訴える母に対して検事は悪意を込めて言った。「ほう、あなたはうちの息子はスパイじゃない、まじめないい子だと言う。それなら、あなたは自分の息子が何学部の何学科に行っているのか答えられるか?」
日本の地方で苦労を重ねながらつましく暮らす在日コリアン一世がソウルの大学事情に詳しいはずがない。即答できない母に向かってすかさず検事は「自分の息子が何学部に行っているかも知らないのか? そのくせ、スパイ活動をやっていないとなぜ言える。お前の息子はお前が知らないうちにスパイ活動をやっていたのだ」
度し難い侮辱は心を壊す。あまりのショックに母は床につき、その3年後に亡くなってしまった。李哲の両親の尊い命はこうして奪われた。
死刑から一転、減刑の日
1979年8月15日、光復節。日付が変わって夜が明ける前、雑居房に寝ていた李哲は突然、看守にたたき起こされた。
「おい、手錠をはめているか?」「はめています」「それなら早く靴を履いて出てこい」
これは100%死刑執行の呼び出しだと確信した。同時に忸怩たる念が湧き起こった。何の予告もなかったがために、新品の下着に着替えることができなかったのである。死刑囚には、最期の生き様を整えるため、刑場に向かうときは新しいシャツとパンツに着替えるという不文律があった。李哲もそのために新品の下着を一組だけは使わずに残していた。しかしこれでは同房の人たちに挨拶するのが精いっぱいであった。
ソウル拘置所には、大阪から留学にきて、同様に逮捕されて死刑判決を受けた康宗憲(カン・ジョンホン)という2歳年下の後輩がいた。自分の死刑が執行されたら、必ず宗憲も続いて処刑される。
房を出て中央通路を歩かされるとき、宗憲のいる雑居房を覗くと、何も知らずに寝込んでいた。李哲は扉を思いっきり蹴った。驚いて跳ね起きた宗憲は叫んだ。
「兄さん、どこへ行くんですか」「俺もわからん、来いと言うから行くだけだが、次はお前の番だから準備して待っておけ」
自分には叶わなかったが、せめて宗憲には身なりを整え、心の準備をする時間をこしらえてやりたかった。
死刑場に至る通路はYの字になっていて、左に曲がれば刑場である。ところが看守は右に行った。死刑を前に抵抗されないよう、油断させておいて、この先から引き返すのか。まどろっこしいことをするものだと思った。しかし一向に戻る気配がない。李哲はたまりかねて尋ねた。
「こんなに朝早く、私をどこに連れていくんですか」
返事は意外だった。
「今日は8月15日、光復節じゃないか、こんな祝日に、朝早く呼ばれるのはいいことだぞ」
そのまま所長室に連れていかれ、死刑から無期懲役に減刑されたことを告げられた。自分だけが減刑されたことで心苦しさを感じたが、他の在日死刑囚たちは心から喜んでくれた。
死刑からは逃れたといっても、服役が終わるわけではない。李哲はソウル拘置所の後も、大田(テジョン)矯導所(刑務所)を皮切りに、5回も各地の矯導所を引き回された。これは政治犯の中でも最多であり、その間、たくさんの民主化の闘士たちと出会った。特に大田矯導所の第六舎で知り合った、思想転向を拒否し続ける長期囚の方々には大きな影響を受けた。凄惨な拷問によって転向を迫れられながらもそれを拒み、ひたすら祖国統一の大義に殉じようとした生き様から受けた感銘によって、李哲は後年、同様に大田に収監されていた作家キム・ハギが非転向囚を描いた小説『完全なる再会』(93年、影書房)の日本語訳を行うに至る。
李哲は闘争を続け、韓国が87年に民主化した後、88年10月に仮釈放されて安東矯導所から出所する。そして、自身の刑期を終えていた婚約者、閔香淑と結婚した。閔香淑は人から「13年間、よく李哲さんを待ちましたね」と言われるとこう返した。
「いえ、私は待ったのではなく、13年間かけて李哲を釈放させたのです」
閔香淑は民主化運動組織の主要メンバーとして、李哲の無実を訴える活動をし、それが実を結んだのである。

李哲さんの仮釈放を伝える新聞記事(1988年10月3日付「朝日新聞」夕刊)