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連載

ミャンマーサッカー代表選手ピエリアンアウンは何を選んだのか? なぜ選んだのか?

第23回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

 サッカー選手の政治亡命はヨーロッパでは決して珍しいことではない。
 古くはその名がFIFAのアワードの冠にもなったハンガリーのフェレンツ・プスカシュが有名である。1950年代前半に無敗を誇り、世界を席巻したハンガリー代表、通称「マジック・マジャール」のエースは、1956年に起きたハンガリー動乱をきっかけに国外に逃れた。母国の民主化を押し留めようとするソ連軍の戦車が襲い掛かり、この運動が潰されると、ブダペスト・ホンヴェードの一員として出場していたUEFAチャンピオンズ・カップのアスレチック・ビルバオとの試合の後にハンガリーに帰国することを望まず、そのまま開催地のスペインに残ることを決意したのである。1958年からレアル・マドリードでプレーを始め、故国への帰還を本格的に実現するのには、1989年の東欧民主化革命を待たねばならなかった。30余年ぶりの帰郷にプスカシュは「国を捨てた裏切り者」として民衆に投石されるのではないかと不安に思っていたそうであるが、市民感情はその逆で、ブダペストの空港で大歓迎を受けた。ピエリアンアウンもいつの日か、その勇気を讃えられて凱旋帰国できることを切に願う。

 Jリーグでは2003年に横浜FCでプレーをした元アルバニア代表のルディ・バタもまた政治難民である。拙著『蹴る群れ』(集英社文庫)に記したが、バタが物心ついた頃、アルバニアは宗教を全否定して鎖国を敷いた独裁者、エンベル・ホッジャの圧政により、ヨーロッパ最貧国となっていた。それはまた想像を絶する監視社会でもあり、政府に不満を漏らすとすぐに密告され、多くの市民が逮捕されていた。
 筆者が「ホッジャの時代は……」と質問の中で人名を出した途端、バタは通訳が訳そうとするのに先んじて、まくし立てた。

「あいつは、ヒトラーよりもスターリンよりも酷い独裁者だ。社会を監視の闇に包み込んだ。このパンは不味いとか、この交差点は赤信号が長いとか、そんなことを街中で言うだけで逮捕の対象となった。何の未来も見えなかった」

 母国で恐怖を感じ続けていたバタは、1991年3月30日にパリで行われた欧州選手権予選のフランス戦のあと、チームメイト7人でともにホテルを脱出した。生きる術としてのスパイクだけを手にして走り続け、中央警察で難民としての保護を求めて、これを認められている。以降、艱難辛苦の末に、ヨーロッパのクラブでプレーを続けた。フランスのクラブ、ルマンで認められ、やがてはスコットランドのセルティックに移籍し、グラスゴーダービーで25メートルのフリーキックを決めている。ルマンにセルティック、何の因果か、後にそれぞれ松井大輔と中村俊輔が活躍するクラブで結果を出したバタは、現役の晩年にJリーグにやって来たのである。
 プスカシュやバタ、あるいはチャウシェスク時代のルーマニアからユーゴスラビアに逃れてレッドスター・ベオグラードでプレーし、東欧のベッケンバウアーと呼称されたベロデディッチなどは、現役で、つまりは一世で難民となった選手だが、これを難民の二世、三世の選手と広げれば、数限りない。スイス代表などは、ジャカシャチリを含めほとんどコソボ難民やその二世などで、スイス以外をルーツにしていると言っても過言ではない。ベルギー、フランスも同様である。 
 ヨーロッパでは珍しくないこの種の選手移籍を、日本のサッカークラブはどう見ているか。

日本でサッカーを続ける道

 ピエリアンアウンが日本に残る判断を下し、帰国便に乗らなかったという一報を筆者が関西空港から流した直後、一本の電話が入った。町田ゼルビア唐井直ジェネラルマネージャー(GM)からであった。

「あのミャンマーの代表選手がまだサッカーを日本で続けたいというのなら、応援したいと考えている人物がいますよ」

 唐井GMの長女は大学院で人権を専攻しており、ミャンマーの少数民族、カチン民族の女性の難民認定判決に関する評釈を法学誌に寄稿していた。身内にミャンマー研究者がいることもあって、唐井自身も軍事クーデターにビビッドに反応していたのであるが、さらに、この問題を他人事と捉えていないJ3のクラブ経営者を紹介された。それがY.S.C.C.横浜吉野次郎代表であった。

 即座に吉野にアプローチすると、「もちろんサッカー界におけるコンプライアンスはしっかりと確認した上でですが、同じサッカーを行う仲間として、彼が希望するなら、練習に来てもらってもいい。生活やプレーの環境を整える必要もあるし、プレーも見ずにいきなり選手登録というわけにはいかないが、まずは一緒にサッカーをやろうと彼に声をかけてあげたい」と即答された。

Y.S.C.C横浜代表の吉野次郎さん

 Y.S.C.C.横浜は『ボールで笑顔、ボールで世界平和』、『地域はファミリー!』を合い言葉にさまざまな活動をしている。吉野は「我々のクラブの理念からすれば、ピエリアンアウン選手を受け入れることも十分考えている」と語った。
 それは、ただサッカーをするのではなく、このスポーツを通して地域や社会の問題を解決していこうというクラブポリシーである。これまでも横浜の「ドヤ街」といわれる寿町に暮らす人々への就労支援などを行ってきた。ウェブメディア「オルタナS」がY.S.C.C.の活動を紹介したレポートにはこうある。

「今年はSDGsをテーマにこの大会(編集部注:横浜開港記念サッカー大会)を企画した。大会は終日かけて行われるが、エキシビジョンとして、午前は『貧困から豊かさへ』をテーマにしたミニゲームを開催。/参加したのは、アフリカやガーナ、ナイジェリア、中国、韓国など外国籍を持って日本に滞在している人と同クラブに所属する外国籍選手たち。言語も文化も異なる人どうしが、ボール1個で、笑顔で交流した。/午後のテーマは『平和』。日本の三大ドヤ街として知られる寿町の交流センターで働くスタッフと沖縄で不登校児向けの支援活動を行う職員らが参加した。」(2019年11月27日「サッカークラブ『YSCC横浜』がSDGsに取り組む理由」)

 下記はこの記事に添えられた吉野のコメントである。

「ぼくらはグラウンドを持っている学校などに許可を得て、活動ができている。だからぼくらからも何かを還元したい。街の課題を考えたときに、寿地区住民の健康課題を知った。ベイスターズもマリノスも入り込まない寿地区が、ぼくらを呼んでくれるのであれば倍にしてお返ししたい」(同上)

 サッカーで世界平和を、という理念を体現する分厚い活動実績を持つこのクラブがピエリアンアウンの存在を知ったとき、真っ先に手を差し伸べようとしたのは必然とも言えよう。事実、吉野はスポンサーのひとりにこう言われたという。

「今までのY.S.C.C.の活動を見ていたら、ミャンマーの難民選手の救済に向かう、という流れは至極当然だと思う。吉野さん、応援してあげなさいよ」

「NO POVERTY」をはじめ、Y.S.C.C.横浜の理念がプリントされたボール

 吉野は日本サッカー協会に、ピエリアンアウンのような背景の選手をもしも登録するとなった場合、何がポイントになるのかを問い合わせていた。ヨーロッパではよくあることでも、日本サッカー界では初めてのケースである。
 協会から得られた回答は、「難民認定申請と選手としての登録は別である。選手としては、祖国、つまりは前の所属クラブにおける残存契約などの問題がクリアできるのであれば、あとは、就労ビザが取れるか否かが問題である。それが取得できれば問題はない」というものであった。
 現在ピエリアンアウンが所持しているのはW杯予選出場のための短期滞在ビザであるが、これが特定活動可能な就労ビザに切り替われば問題がない、ということである。前所属クラブとの関係を言えば、昨年の12月以来、給料が支払われておらず、2月のクーデターの影響で国内リーグも中断したままであることから、これも問題がない。パルチザン・ベオグラードに所属していた浅野拓磨が給料未払いを理由に、ボーフムへの移籍を移籍金なしで行ったことを見ても明解である。
 また「FIFA規則の中に、選手としての地位保全を考えた時、危険な状態にある祖国を脱出した選手がいた場合など、ITCという国際移籍の手続きをスキップできるという項目がある」という。これなどは、やはり命の危険から逃れて難民となった選手を救済する措置としてFIFAがすでに規約整備をしている証左である。

印象に残った日本代表選手は「南野」

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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