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連載

ミャンマーサッカー代表選手ピエリアンアウンは何を選んだのか? なぜ選んだのか?

第23回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

命がけで示した3本指のポーズ

 6月22日。利き足が左だからなのか、ペンを持つのも左手だった。ピエリアンアウン(27歳)は畳の上に置いた難民認定申請用紙に一生懸命に文字を書き込んでいく。
 彼は、6日前の夜、母国への帰国便への搭乗を拒んだ。なぜ拒んだのか、はすでに数多く伝えられている。
 5月28日、サッカーW杯アジア2次予選、日本対ミャンマー戦のキックオフ前、世界に発信される国際映像のカメラに向けて、公然と祖国ミャンマーの軍事クーデターに抗議するポーズを取ったのである。それは軍事独裁に不服従を示す3本指のサインであった。
 自身もミャンマー出身の難民認定者で、ピエリアンアウンの支援者であるアウンミャッウイン(連載第20回第22回参照)は言う。
「私はテレビで観ていて、彼のとてつもない勇気に感嘆しました。と同時に大きな危険を感じたのです。あのポーズを取ったことで国軍を激怒させています。今の国軍政権なら空港で逮捕して拘束、そのまま拷問にかけて、知らないうちに彼を殺してしまってもおかしくはない」

 3月27日にタイで行われたミス・グランド・インターナショナルのコンテストのスピーチで国軍支配を非難したミス・ミャンマーのハンレイも「ピエリアンアウン選手が命がけで3本指を示したことを尊敬しています」と発言している。ピエリアンアウンは当初は逮捕覚悟で帰国する気であった。まさに命がけなのだ。
 一方で、ではなぜそこまでの危険を冒してピエリアンアウンが3本指を出したのか? はほとんど報じられていない。

亡くなったアンゼンピョ選手の写真を見せるピエリアンアウンさん

ミャンマーサッカー協会の裏切り

「大きな決断をしたのはミャンマーサッカー協会が私たち選手を裏切ったからです」

 畳の上で姿勢を正して言う。クーデターによって政権を奪取したミャンマー国軍は司法、行政、立法のすべての権力を手中に収め、これに抗議した市民の平和的デモに向けて銃撃を行った。すでに約800人以上の無辜なる人々が軍の凶弾に倒されており、その中にはサッカー選手も含まれている。ピエリアンアウンは、ペンを止めて、遺影としてスマホに入れている2人の写真を見せる。
 U-21の代表キャプテンであったチェボーボーニェエン(ハンタワディ・ユナイテッド)とリンレットFCのアンゼンピョである。チェボーボーニェエンはユース世代でリーダーシップがあった素晴らしい若者。アンゼンピョはピエリアンアウンの地元、マンダレーのクラブに所属し、同じGKとしてピエリアンアウンをアイドルのように慕っていた後輩。

「そんな彼らがなぜ、殺されなくてはならなかったのでしょう?」

 今、ミャンマー内で対立しているのは、圧倒的な武力と兵力で非人道的なことを平気で行っている側と、それに対して微々たる武器で自衛している人々である。サッカー選手たちも当然ながら、人間とはとても言えない行為をしている側ではなく、人間らしく生きたいと言う側にいたのだ。

「しかし、そんな私たちをミャンマーサッカー協会は裏切ったのです」

 3月25日の日本代表戦に向けてヤンゴンで合宿していたミャンマー代表チームは、2月1日に軍事クーデターが起きると一度、解散した。しかし、それによって延期した試合の日程が5月28日に決まると再度招集がかかった。
 国外でプレーする選手は、国軍が不当に支配する国の代表としてプレーをしたくないとしてボイコットした。協会は国内の選手に「君たちの意見を聞いて反映する」と言ってきた。
 ピエリアンアウンたち選手は、サッカーを国軍政治府から独立させることを望んだ。ミャンマーサッカー協会としてクーデター政権を批判してほしいとまでは言わないが、国際試合に参加するにあたって、「我々は今の政府の行っていることとは関係がない。あくまでもサッカーを代表する団体である」という声明を出してほしいというのが選手たちの要望であった。当然であろう。協会に登録している選手までが国軍によって殺されているのだ。

「私は選手が、と言うよりもそれ以前に、何の罪もない若者が虐殺されていることに大変な憤りを感じていました。ミャンマーサッカー協会には、そんな国軍政府と距離を取ってほしかった。しかし、協会は『ここでW杯予選に出場しなければFIFA(国際サッカー連盟)から制裁を科される』という本質に触れない言い訳のようなものを発信して国家代表招集を正当化したのです。私たちはボイコットする間もなく、それを理由に声明の3日後に開催地の日本に連れて来られたのです。だまされたと思いました」

 選手を政治から守るというのは競技団体の大きな使命である。少し似たようなケースで言えば、1978年のアルゼンチンW杯が挙げられよう。この時は2年前の軍事クーデターで政権の座に就き、以降、約3万人の市民を拷問、処刑していたホルヘ・ビデラ大統領が国内に戒厳令を敷いていた。当時のことを元アルゼンチン代表選手で、後に清水エスパルスや東京ヴェルディなどで指揮を執ったオズワルド・アルディレスはこう言った。

「この軍事独裁政権が支配する厳しい時期に、政治家から一切手出しをさせず、我々代表チームと政治との距離を保って試合に集中させてくれたのが、ルイス・メノッティ代表監督でした。彼に受けた恩を私は忘れることができない」

 ミャンマーサッカー協会にメノッティはいなかったということか。

サッカー代表チームは国軍の代表ではない

 ピエリアンアウンは真意を言う。

「私は3本指を出すことを、(ミャンマーサッカー協会が何も発信せずに唯々諾々と軍政に従ってしまったので)それで決意したのです。テレビに映れば、ミャンマー市民はそれを見てくれる。ミャンマーのサッカー代表チームは国軍の代表になるわけではない。あなたたち市民と共にいます、ということを伝えたかった」

 ミャンマーのサッカーは市民を平気で殺す国軍の宣伝ツールになってしまったのか?事実、この「誤解」はあった。千葉で行われた日本戦の前、会場のフクダ電子アリーナ前では在日ミャンマー人たちによる「ミャンマーサッカー代表チームは国民を代表するのをやめろ!」というシュプレヒコールが起こっていた。あるビルマ民族の男性は言った。

「サッカーはもちろん大好きだ。だから応援したいよ。でもクーデターを正当化するプロパガンダに使われる代表チームは見たくない」

 そんな空気の中、ピエリアンアウンが3本指を出した。

「命を奪われたすべての人と自分は今、一緒にいるという思いでした」

 そしてこのポーズは、大きな希望を国内外のミャンマー市民に与えた。「絶望の淵にいたのに心底励まされた」「危険な状況の中でよくやってくれた!」など、ミャンマー人たちの集うSNS上では称賛の声がとめどなく溢れた。
 目的を果たしたピエリアンアウンは当初は帰国する考えであった。しかし、最後の最後、支援者による懸命の説得があった。「命を大事にして欲しい」「帰国すれば確実に逮捕される」……。
 関西空港のイミグレーションに向かう中で日本に残る決断を下し、入管職員にその意志を伝えて保護された。現在、日本政府は不安定なミャンマー情勢を鑑みて、在留を希望するミャンマー人に対して、緊急避難措置として在留、就労を認める方針を打ち出しており、万が一、難民認定が下りなくともビザの切り替えが認められれば在留や就労が可能である。

サッカーと政治、亡命の歴史

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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