資本主義――それは自由か、束縛か
吉田徹(同志社大学教授)
ティエリーは、過去に自分を解雇した会社との法廷闘争に加わらない理由を、自分の中でケリをつけて前に進みたいからだと仲間に対して雄弁に説き、生活資金を得るためにアパートや別荘を売却するのを拒否する、誇りの高い人物として描かれます。しかし、映画の後半、スーパーの警備員となってからの彼の台詞はどんどん少なくなり、徐々に表情と感情をなくしていきます。喜びや悲しみという感情すらも、意識的に封じ込めなければ、働くことがままならないからです。
この作品には、ティエリーが妻とともに、社交ダンスクラブでレッスンをするシーンが長々と挿入されています。失業中のささやかな社会生活であるとともに、ぎこちないティエリーを描くことで、資本主義が要求するリズムに乗ることのできない彼を象徴的に捉えています。『ティエリー・トグルドーの憂鬱』は、『怒りの葡萄』のように資本主義を非難するのでも、『マネー・ショート』のようにその冷酷なメカニズムを描くものでもありません。人から自由を奪い去るばかりか、奪い去っていることをも忘れ去らせてしまう資本主義が、果たしてその名に相応しいのかどうかを、私たちに静かに問いかける作品です。資本主義が本格的に誕生した19世紀の時のように、それが私たちの自由に奉仕するものであるのかどうかを精査すること――そんな観点から資本主義を捉え直すことも必要なのかもしれません。