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連載

ポピュリズム――その源泉を辿る

第12回

吉田徹(同志社大学教授)

 もっとも、ポピュリズム政治は、ポピュリスト政治家だけでは成り立ちません。それを支持する人々、すなわち現在の政治から疎外されていると感じる群衆がいて、初めて成り立ちます。このダイナミズムを描くのが『群衆』(フランク・キャプラ監督、1941年)です。同作品は、『オペラハット』(1936年)、『スミス都へ行く』(1939年)、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)とあわせて、同監督の「ポピュリズム四連作」のひとつに数えられています。いずれも、名もなきアメリカ人が権力者に立ち向かって彼らの鼻を明かし、庶民の共感を集めるという物語であることで共通しています。

『群衆』の原題は「ジョン・ドゥを紹介しよう(Meet John Doe)」です。この「ジョン・ドゥ」は日本語でいえば「名無しの権兵衛」「身元不明人」という意味合いですが、これも一般庶民の物語であることが強く示唆されたタイトルです。

 社会が疲弊していたこの時代、アメリカでは不安や騒乱が蔓延していました。新聞社で退職を迫られた女性記者アンは、上司への腹いせに、今でいうところのフェイクニュースを書きます。彼女がでっち上げたのは、自分たちのような恵まれない人間がいることを社会に知らしめるため、抗議の意味を込めてクリスマス・イヴに自殺をする、という新聞への投書でした。ジョン・ドゥという名前で書かれたこの記事は瞬く間に世間の注目を浴び、新聞も飛ぶように売れることになります。今風にいえば「炎上商法」でしょう。

 不満を抱えていた人々は、ジョン・ドゥを応援するデモを行い、政治家たちは対応に追われることになります。困った立場に立たされたのが、この記事を掲載した新聞社です。偽の記事であることをいまさら世間に公表するわけにはいかず、そのためセレブなりたさから自分こそがジョン・ドゥだと名乗る人物の中から、失業中の元野球選手の中年男性ウィラビー(演じるのはゲーリー・クーパーです)を実際のジョンに仕立て上げることになります。

映画「群衆」より

 新聞社のお抱えとなったウィラビーは、ラジオ番組に出演し、各地で演説会を行って、新聞の売り上げに貢献することになります。「農業や鉱山や工場で汗を流す人々、パイロットやバスの運転手、警官にどなられる人、それがジョン・ドゥです」「人は団結したときに真の力を発揮するのです」「ドゥたちが集まり、力を発揮するときなのです」――彼の呼びかけに応じて、各地では「ジョン・ドゥ・クラブ」が自発的に生まれ、人々が声をあげるようになります。ウィラビーは、自分が偽者だと知りながら、世の中に自分の呼びかけが響き渡り、それが人々の行動に影響を与えるようになることに、手ごたえを感じるようになります。これも、目的が手段を正当化する、悪から善が生まれるという逆説です。

 もっとも、彼は操り人形に過ぎません。彼の知名度と影響力を目の当たりにして、新聞社のオーナーと幹部たちは、ジョン・ドゥ・クラブの全国大会で、新党を結成し、その支持者を取り込んでオーナー自ら大統領選に立候補しようと企てます。それまで彼が頼りにしていたアンも、自分の出世のために彼を利用していたに過ぎないことが解り、ウィラビーは強い憤りを覚えます。

 大会で全てを暴露しようとするウィラビーを阻止するため、新聞社は号外をばら撒き、彼が最初から嘘をついていたこと、偽のジョン・ドゥであることを聴衆に知らせます。聴衆の怒りを買った彼は、命からがらスタジアムから逃げ出すことになります。時として真実は、人々の怒りを呼び覚まします。

 再び無名の人間となったウィラビーが取りうる選択は、ジョン・ドゥを自分の手で再び本物にすること、つまりクリスマス・イヴに飛び降り自殺をすることです。果たして彼は、自らが見出した理念を実現するため、どのような行動を取るのか――。

 この『群衆』のテーマを異なる視角から現代に再提示したのが、ヒット作『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、2019年)でしょう。やはり孤独と疎外を抱えた主人公が、同じ想いを抱える無名の民を自身の力としながら、変身していくというこの映画も、現代のポピュリズム政治を象徴するものとして捉えられました。

 ヨーロッパや日本と違って、アメリカでは「ポピュリズム」や「ポピュリスト」という言葉がむしろポジティブな意味で使われることが多いということにも注意しなければなりません。アメリカではこれらは「庶民的」「庶民の味方」というニュアンスを帯びているためです。政治学者リプセットは、「自由」「平等」「個人主義」「自由放任」、さらに「ポピュリズム」こそが、アメリカ政治で繰り返し表れる信条体系だと指摘しています(※2)。ここでいうポピュリズムとは、字義通り「庶民主義」とでもいうべきものです。富豪の持つカネ、インテリの持つ知識、政治家の持つ権力(そして大メディアはこの全ての象徴でもあります)、このいずれも持たない庶民こそが、本来は民主主義の主人公であるべきだ、との考えです。

 ポピュリストとされる人間は、自らをポピュリストと名乗るわけではありません。それは、ポピュリズム政治を脅威に覚える、これらのエリートたちによって名指しされる対象なのです。

 確かに、トランプ大統領やブラジルのボルソナロ大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領など、最近のポピュリスト政治家とされる人たちの言動は到底首肯できるものではありません。しかし、そうした彼らの言動の源泉となっているのは、民主主義では正当に扱われて然るべき庶民が無視されている、という人々の強い怒りです。その怒りを理解できない限り、私たちは常にポピュリストの逆襲にあうでしょう。

 

承認を与えよ――『ネブラスカ』

 J.D.ヴァンスの自伝的小説『ヒルビリー・エレジー』は、トランプ時代のアメリカを代弁する作品として各国語に翻訳され、2020年にはネットフリックス作品として配信・配給されました。「ヒルビリー」の原義は「山間に住む人々」、アメリカでは「馬鹿で世間知らずの田舎者」のようなニュアンスで使われますが、小説と映画ではこれらヒルビリーの実際には厳しくも温かい、相互扶助の精神と生活が描かれていました。

 こうした世界を別様に描くのが、数々の映画賞にノミネートされた『ネブラスカ』(アレクサンダー・ペイン監督、2013年)です。全編白黒のこの作品の主軸を成すのは年金生活を送る頑固者ウディと、その次男の心優しいデイビッドという親子です。ある日、ウディは「抽選で100万ドルが当たった」という、雑誌社からの証書を受け取ります。最近ではスパムメールでも同じようなものがありますが、ウディはこれが本物だと信じて疑いません。彼は賞金を受け取ろうと、住んでいるモンタナ州から、雑誌社のある1500キロ先のネブラスカ州の街まで歩いていこうとします。100万ドルで何を買うのかと尋ねられたウディは「(ピックアップ)トラック」、さらに(塗装用の)「(エア)コンプレッサー)」とすかさず答えます。

 見かねた次男は、しぶしぶ車で連れて行くことにしますが、道中、父親が生まれ育ち、親族が暮らすネブラスカ州(アメリカでもっとも田舎とされている州です)の街に立ち寄ることを提案します。親族は、ビールとスポーツ観戦と車の世界の住人たち、いうなれば娯楽もなければ、文化資本もない世界に住む人々です。リーマンショックの傷跡からか、ウディの甥たちも失業中です。

ただ、次男のデイビッドは、ウディが戦争中は街の英雄だったこと、昔は町工場の経営者だったこと(今ではヒスパニック系移民のものになっている)や、母親との馴れ初めなどを通じて、彼の過去の生活を知り、父への愛情を深めていくことになります。父親が貧しい農家に育ち、幼い頃に兄弟をなくし、その中で苦労を重ねながらも、家族を助けてきたこと、それゆえにアル中になったことなども明らかにされていきます。

 ウディは、自分は億万長者になるのだと、それまで無視されていた街の旧友たちに吹聴して、再びかつての尊敬を集めます。「俺を見る目がガラッと変わったろ」――デイビッドへの自慢の言葉です。もっとも、彼の自慢話は良い結果をもたらさず、当選証書は甥たちに盗まれ、彼は意気消沈します。

著者情報

同志社大学教授

吉田徹

よしだ とおる

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。

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