ポピュリズム――その源泉を辿る
吉田徹(同志社大学教授)
ここまでの展開では、ポピュリズム政治を駆動させる2つの重要なことが示唆されています。ひとつは、ウディが兵役を務め正直に生きてきたにもかかわらず、苦労が報われないまま人生を送ってきたことです。「俺は国に仕えたし税金も払ってきた。何をしようと自由だ」――だから彼は、故郷で敢えて高飛車な態度を取り、過去の仲間と自分が育ってきた環境に復讐しようとするのです。いわば、ウディにとって100万ドルの賞金は、本当でも嘘でも構わないのです。それは、慎ましくも正直に生きてきた報酬として与えられたのだと、ウディは考えたのでしょう。
もうひとつは、製造業の世界から消費の世界への現代社会の変容です。ウディはもともと機械工として生計を立て、車とコンプレッサーにこだわる人間として描かれています。しかし、工場経営には失敗し、コンプレッサーは他人に盗まれてしまった。これらは彼の手からすり抜けていったのです。そのウディが晩年を迎えて、人生の起死回生のためにできたことが、広告による賞金(アメリカではありふれたマーケティングです)を狙うことだったのです。

映画「ネブラスカ」より
ちなみに、ウディに冷たく当たる長男は地元テレビ局で立身出世中のキャスターという設定で、消費資本主義の象徴として位置づけることができます。次男デイビッドは、電器店の店長という設定ですが、家電は製造業と消費社会を橋渡しする財でもあるゆえ、文字通りウディの旧世界と新世界をつなぐ人物であることがわかります。
このようにみると『ネブラスカ』は、巷間いわれるように、心温まるロードムービーなどではありません。プライドを傷づけられてきた人間、そして変化の著しい世界が遭遇した時、ポピュリズムが頭をもたげます。イギリスの現代史家ガートン・アッシュは、映画のウディは、旧世界に生きてきた人物の尊厳が現在になって傷つけられたことを描くものであり、そのような人々こそが各国でのポピュリズム支持者になっているのだ、と書いています(※3)。
アメリカやヨーロッパで議会を信頼している有権者は3割程度しかおらず、政治不信がポピュリズムの原因となっていることは広く知られています。映画では、ウディとデイビッド親子が道中で失くしたものを探す、という場面が幾たびか出てきますが、それはまた世代を超えて、喪失されたもの――時代の変遷によって失われてしまった人間の尊厳――を取り戻さなければならない、というメッセージであるかにもみえます。
賞金を受け取ろうとする2人は、最終的に目的地にたどり着きますが、もちろん当選などしていませんでした。「一度でいいから新車を買いたかったんだ」「何かを残してやりたかったんだ」――父親のそうした想いを聞いていたデイビッドは、自分の車を下取りに出し、100万ドルの賞金は出なかったけれど、代わりにピックアップトラックが貰えたんだ、と父親に報告し、あわせてコンプレッサーをプレゼントします。そして、ウディはその車にコンプレッサーを載せ、故郷だった街の目抜き通りを運転し、周りから称賛の目を向けられるのです。アメリカでは、ピックアップトラックは成功の証し、一人前の男であることの象徴でもあります。
果たして、ウディは2016年と2020年の大統領選でトランプに投票したでしょうか。おそらく、デイビッドの父親への愛情によって、彼がポピュリズム支持者となるのは防がれたのではないでしょうか。