オリンピック――政治と無縁でいいのか
吉田徹(同志社大学教授)
「宴のあと」と言いますが、東京2020オリンピック・パラリンピック(以下オリパラ)は、あっけなく過ぎ去っていきました。エンブレム剽窃問題に始まり、使途不明金、国立競技場のプラン変更、森喜朗大会組織委員会会長の辞任、開会式担当者の相次ぐ辞任、膨大な予算超過など、新型コロナ・ウイルス蔓延のなか開催されたということ以外にも、国民に心から歓迎されたオリパラではなかったかもしれません。
緊急事態宣言が発出されたなかでのオリパラ開催は、改めて「オリンピックと政治」の関係に焦点が当たるきっかけとなりました。オリンピック憲章は、オリンピックの目的は「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである」と定め、IOCの使命は「オリンピック・ムーブメントの結束を強め、その主体性を守り、 政治的中立を維持するとともに促進し、 スポーツの自律性を保護するために行動する」にあると謳っています。しかし、実際には、オリンピックは国家的事業でもあるゆえ、政治の影が常に付きまとってきました。例えば、近代オリンピックの父クーベルタン男爵の母国でもあるフランスで開催された第2回オリンピックは、パリ万博を優先させたい当時のフランス政府の要求によって、万博との同時開催となり、開会式すら行われないという憂き目にあっています。
オリパラに話を戻せば、どれだけウィルスが蔓延しようとも、年が明けてオリパラを中止するという選択肢は政治的にあり得なかったでしょう。任期満了が迫る中で低迷する政権与党の支持率は、オリパラ開催での回復に望みがつながれ、中国の冬季オリパラを控えての不開催は、国際社会での日本の存在感を一層低下させることになったでしょう。経済的にみても、中止すれば2兆円近くの損失が見込まれたことから、その一部しか取り返せないとしても開催した方がまし、という皮算用もあったかもしれません。
憲章には「オリンピック ・ ムーブメントの目的は(略)平和でより良い世界の構築に貢献すること」とあります。しかし、国際的な平和の祭典であるからこそ、そこには政治が生まれる余地があるのです。
このパラドクスを、3本の作品を通じて確認してみたいと思います。

今回紹介する3作品のDVD。左から、『栄光のランナー』(発売元:TCエンタテインメント)、『君の涙 ドナウに流れ』(発売元:スタイルジャム)、『ミュンヘン』(発売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント)。
選手は誰がために走る――『栄光のランナー』
オリンピックの政治的利用として最も知られている事例は、ナチス・ドイツのもとで行われた1936年のベルリン・オリンピックでしょう。ベルリンでの開催が決まっていた1916年の夏季大会が第一次世界大戦勃発のため中止となったことから、当時のドイツにとって開催は悲願でした。開催が決まったのは1931年のこと、ナチス政権が発足する2年前です。当初、ヒトラーはオリンピックに消極的だったようですが、都市改造と国際社会でのナチスの認知を拡大するため、前のめりになっていったとされます。
このベルリン・オリンピックを主題に、実在したアメリカの黒人ランナーの葛藤と活躍を描くのが『栄光のランナー』(スティーヴン・ホプキンス監督、2016年)です。
貧しい家庭に生まれ、妻子を養うジェシー・オーウェンスは、ランナー特待生として家族の中では初めて大学に進学します。ジェシーの生まれたアラバマ州を含め、1930年代のアメリカでは有色人種差別の法律が残っており、白人と黒人は公共交通機関で同じ席に座ることも、レストランで同じ席で食事をとることも禁じられていました。
ジェシーを熱心に指導し、公私にわたって支援をするのは陸上部の監督、スナイダーです。ジェシーは「ドイツじゃ有色人種は歓迎されないと聞いてます」とベルリン・オリンピックへの参加を躊躇しますが、スナイダーは「ここ(アメリカ)でも状況は同じだ、気になるか?」といって、彼の才能を開花させようとします。

映画『栄光のランナー』より
この映画の優れているところは、当時のアメリカの黒人差別とドイツのユダヤ人排斥という2つの異なる人種差別を並列させて、スポーツによってその人種差別と戦うことができるというメッセージを発していることです。
ナチスのもとでのオリンピックに参加することは、アメリカ国内でも議論を呼びます。AOC(アメリカオリンピック委員会 現USOPC)では、「政治とスポーツは切り離すべきだ」とする意見と、「アメリカ人選手の五輪参加に反対票を投じることは独裁国家への反対になる」と、ユダヤ人排斥を進めていたナチスのオリンピックに参加すべきではないとする意見とで二分されます。オリンピックに参加する選手を優先するのか、それともオリンピック憲章の大義を大事にするのか――当時のオリンピック委員会が直面したジレンマでした。
こうした状況は、国内大会を破竹の勢いで制覇し、次々と新記録を打ち立てていったジェシーにも襲い掛かります。すなわち、参加を辞退して黒人差別に反対の意思を表明すべきだと、全米黒人地位向上協会(NAACP)から要請を受けることになります。監督スナイダーは、こうした政治に反対します。「歴史に名を残すチャンスを捨てるのか?」。ジェシーはこう反論します。「人は俺を手本にする」。「人って誰だ? 黒人のことか? そんな問題はどうでもいい!」と言い返す監督には、それは「(お前が)白人だからだ!」と啖呵を切ります。
日本でも障がい者やマイノリティをメディアが取り上げることで「感動ポルノ」を生んでいるという批判がありますが、こうしたジレンマはあらゆる差別に付き物です。差別される側は、差別する側が用意した舞台にあがり、その視線に晒されなければ、差別の存在を社会に示すのは難しい。しかし、舞台にあがったところで差別の構造そのものがなくなるわけではないため、結果的に差別を温存する構造に加担する、というジレンマです。
AOCとともに、ジェシーは最終的にベルリン・オリンピックへの参加を決めます。ここで彼が背負ったのは、黒人として活躍すること、さらにアメリカの国旗をひとつでも多く掲げるという二重のプレッシャーでした。 フェアプレー精神を発揮してジェシーと交友を温めたドイツ人選手は、ナチス政権を批判して、彼にいいます。「きみはアメリカに住めて幸せだ」。これにジェシーは「どうかな、突き詰めれば違いはない」と返します。
オリンピック憲章では選手が政治的言動をするのを禁じていました。ところが、今回のオリパラではこのルールが緩和され、多くの選手が公の場で差別反対のジェスチャーや言動をしました。これは、国と国との間のナショナリズムによる政治ではなく、もっと個人的な次元での政治こそが欠かせないものになったことの証左でしょう。そうした時代の趨勢を、ベルリン・オリンピックに見出したのがこの映画でもあります。
ちなみに日本でも『栄光のランナー』と類似する話があります。ベルリン・オリンピックには計7名の朝鮮半島出身者が参加していましたが、このうち孫基禎という選手はマラソンで金メダルを、南昇龍は銅メダルを射止めました。特に孫選手は、優勝して宗主国の旗である日章旗が揚げられたり、日の丸のついたユニフォームを着ることに強い抵抗感を覚えたと回顧しています。日本の統治下のなか、自らの民族の代表の活躍を知った朝鮮半島の人々は大きな喜びに包まれたといいます。ジェシーを応援していたアメリカの黒人も同じ感動を味わったでしょう。
抗議の場としてのオリンピック――『君の涙 ドナウに流れ』
オリンピックは、記録という絶対的に平等な基準で、あらゆる属性の人々が競い合う祭典でもあります。それゆえに、その国が持つ脆弱さや矛盾を白日のもとに晒す作用をも持つことになります。
つまり、オリンピックは、ナショナリズムを鼓舞するためだけに利用されるわけではありません。自分たちが受けている抑圧や差別、理不尽さを世界中の人に知ってもらうための場でもあります。
次に紹介するのは、1956年のメルボルン・オリンピックに参加した水球チームの選手たちを主人公に据えた『君の涙ドナウに流れ』(クリスティナ・ゴダ監督、2006年)です。