移民・難民――彼らはなぜやってくるのか?
吉田徹(同志社大学教授)
タイトルにあるディーパンとは、スリランカ人である主人公の名前、彼は難民として出国しやすいよう、見知らぬ女性ヤリニ、そして孤児となった女の子イラヤルとともに家族のごとく振る舞い、フランスへと無事脱出します。
嘘をつき通して難民として認定された彼は、公営団地の管理人の職をあてがわれます。ただ、団地の治安は悪く、一棟はギャングの巣窟と成り果てています。映画ではやや過剰な演出がされていますが、この連載で取り上げた『憎しみ』(マチュー・カソヴィッツ監督、1995年)でもみたように、フランスの郊外の公営団地のスラム化は、1980年代からフランス社会での大きな問題となっています。
フランス語のできないディーパンは、小学校で言葉を習得したイラヤルを頼りに、管理人としての業務に精を出します。ヤリニもギャングのリーダーの父親の家事手伝いとしてアルバイトをするようになります。是枝裕和監督の『そして父になる』(2013年)や『万引き家族』(2018年)のごとく、互いの愛情を確認しながら、彼らは徐々に本当の家族として、住民の中に溶け込んでいきます。

映画『ディーパンの闘い』より
もっとも、ディーパンがたどり着いたフランスの団地は、安住の地ではありませんでした。ギャング同士の抗争をみたヤリニは彼に尋ねます。「昼間から発砲事件があるなんて何も思い出さないの?」――ここでスリランカとフランスは、パラレルに捉えられます。スリランカは2009年まで多数派のシンハラ人と少数派のタミル人との抗争が四半世紀にわたって続いていましたが、ディーパンはタミルの兵士として戦い、その過程で妻子を失うという経験を持つ人物であった事実も明らかにされます。
すなわち、内戦から逃れてきたディーパンが直面したのは、新たな紛争地帯でした。ただ、もはや逃れる先はありません。彼は敷地内に白線を引いて「発砲禁止区域」を自ら設定し、ギャング同士の銃撃戦に巻き込まれたヤリニを助けるために自らの身を投じ、自らの手でもって平和をつくり出そうとします。
この作品でフランス人のオディアール監督が問うのは、こういうことでしょう。自分たちの手で争いを鎮めることもできない私たちに、紛争地から逃れてきた人々を見下したり、差別したりする資格が本当にあるのか、自分たちが生きる境遇を何とか良くしようと献身する彼らの方がよほど道徳的な存在ではないのか、と。
日本の都市でも、団地住人の高齢化とともに、移民系住民たちによる文化の多様化が進んでいるところがあります。大島隆著『芝園団地に住んでいます――住民の半分が外国人になったとき何が起きるか』(明石書店、2019年)に詳しく紹介されていますが、外からやってきた人たちが新たにコミュニティをつくり、主体的に生活空間を整備しているところもあるようです。この映画の最後が描くように、そうした人々の善意を受け止めるだけの度量が社会にない限り、私たちの社会は彼らの安住の地として選び取ってもらえず、見知らぬ者を受け入れる寛容さを失えば、それだけ私たちの社会そのものが不寛容なものになっていくでしょう。
奇跡を呼び起こす人たち――『ジュピターズ・ムーン』
著名な思想家ジャック・デリダは、フランスがまさに移民問題で揺れていた90年代半ば、「歓待」をテーマにした講義を行っています。ここで彼はカント哲学やギリシャ神話に触れながら、「異邦人」を無条件で迎え入れることの道徳性とその難しさを議論しています。
「歓待を受ける権利は、『家族の中の=内輪の』異邦人、つまりファミリー・ネームで代表され、保護されている異邦人にたいして差し出されます。(略)匿名の到来者、名も姓も持たず、家族もなく、社会的地位もないがゆえに、異邦人としても取り扱われず、野蛮な他者とみなされるような者にたいしては、歓待は提供されない」(ジャック・デリダ『歓待について パリ講義の記録』廣瀬浩司訳、ちくま学芸文庫、2018年)。
移民や難民は、避けることのできない理由から、私たちの住む場所にやってきます。しかし、彼らが迎え入れられるべきか、どのような資格で滞在すべきか、どこまで支援を受けるべきかについては、私たちに任されています。それゆえに、異邦人という存在が問うているのは、私たちの有り様でもあるのだ、とデリダは言います。
こうした異邦人の存在によって照らされる社会の在り方を描くのが、ハンガリーのコーネル・ムンドルッツォ監督『ジュピターズ・ムーン』(2017年)です。
このファンタジー映画の主人公は、シリアからハンガリーに渡航しようとして父親とはぐれたアリアンと、彼を利用して窮地を脱しようとする中年男性医師のシュテルンの2人です。
アリアンは、国境警備隊から追われる途中、銃撃を受けて負傷しますが、そのことで宙を飛ぶという、不思議な能力を授かります。アリアンの傷を治療することになったシュテルンですが、医療過誤で賠償金を支払う破目に陥っていた彼は、アリアンの超能力を利用しようともくろみ、信心深い人々から金を巻き上げていきます――「聖書は天使だらけだ。(それは)実在するからでは(ないか)?」。シュテルンが言うように、アリアンが天使だったとしても不法滞在者であることは変わりません。2人は、アリアンの同国人による爆破テロ事件に巻き込まれながらも、移民局の追跡を振り切ろうとします。

映画『ジュピターズ・ムーン』より
父なき異邦人たるアリアンと、息子のいないエリートのシュテルンは補完的な存在として対置されています。そして、アリアンは同国人に、シュテルンはフィアンセに裏切られることで、2人とも孤立無援の立場に追いやられるという共通の経験もします。ここに、訪問する側と、訪問される側との奇妙な共同性が浮かび上がります。シュテルンは、自らの保身のためではなく、アリアンの将来のために生きることを決意します。
「昔の人々は神を信じ、奇跡を信じた。その気持ちを今の人間は忘れてる」
この映画は、アリアンを受け入れがたく、飽くまでも違法な存在とみなす社会と、反対に彼は神の意思――人は平等であること――を体現すると信じる2つの社会のせめぎ合いを描くものでもあります。そして、シュテルンは、アリアンという異邦人を通じて、自らの人生をいかに生きるべきかの啓示を受けるという、奇跡を経験します。
デリダは先の講義で次のように指摘しています。「異邦人の問いは、異邦人からの問いであり、異邦人からやって来た問いなのです」(前掲書)。異邦人としての移民や難民の来訪は、私たちの社会がいかにあるべきかを考えるための得難い機会でもあります。これから、ますます増えていくであろう私たちの国や社会への訪問者を、奇跡へと転じさせることができるかどうか。彼らや彼女らの存在が問うているのは、そのことであるように思います。