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連載

子ども――社会を映し出す鏡

第15回

吉田徹(同志社大学教授)

 さて、このチリの左派政権を物心ともに応援しようと、アナの両親は仕事を辞めて反体制派の革命家たちのアジトとして自宅を解放します。当然ながら、娘アナにも労働者の味方をするように諭します。彼女がコミックを読めば「ミッキーはファシストだ」と取り上げ、反カトリック(世俗主義)の立場から学校の宗教教育にも出席させないようにし、第三世界との連帯とばかりに、アナが慕っていた反カストロのキューバ人の家政婦をクビにして、軍事政権下にあったギリシャや戦禍にあるベトナムの女性にアナの面倒をみさせます。死刑反対デモに参加してアナが「お腹がすいた」と漏らせば「自分のことばかり、団結の精神を持て」と叱られます。最初は両親の熱心さに引きずられていたアナも、両親のこうした政治的意見の一方的な押し付けに反発するようになります。

映画『ぜんぶ、フィデルのせい』より。母方の親族の結婚式にて。写真:Album/アフロ。

映画『ぜんぶ、フィデルのせい』より

 反骨心と好奇心旺盛な彼女は、甘やかしてくれる祖母に尋ねます。「パパたちはキョーサン主義者? どんな人たちなの?」「学生や労働者もいるけど、特に貧しい人たちよ」「望みは?」「すべてよ。私たちの家、ブドウ畑、洋服、お金、オモチャも」。

 この時代にはよくあったことですが、自らが裕福で恵まれた環境で育った世代の人たちは、途上国の労働者たちの味方をすることでその贖罪の意識を払拭しようとしました。アナの母親の実家は保守的なブルジョワで、父親の実家は当時権威主義体制を敷いていたスペインのフランコ体制の下の名家でした。こうした両親の個人的な出自は、遠いチリではなく、実際の社会の問題に取り組むきっかけを作ります。作中では、アナの母親が、当時のフランスで有名になった「343人のマニフェスト」という、当時は非合法だった妊娠中絶を経験した女性たち(中には「人は女に生まれるのではなく女になるのだ」という言葉で有名な哲学者ボーヴォワールも含まれます)による宣言文の作成に取り組む姿が描かれていますが、これも彼女の姉が中絶を余儀なくされたことをきっかけとしたものでした。父親も娘を実家に連れて行き、自分たちの家がフランコ派であったことを明かします。こうした親の姿をみて、アナも徐々に心を開いていくことになります。頭のなかで繰り広げられる革命ではなく、両親の具体的な苦悩がこの世界の不幸と結びついていることを理解するようになったからです。親が悩むことで、子どももともに成長していくのかもしれません。

 60年代後半に日本を含む先進国でみられた大規模な学生・労働運動は、大きな価値観の転換を社会にもたらしました。女性の権利の尊重(中絶もそうですが、例えば夫の許可がない場合、女性は銀行口座すら開けないのは当たり前でした)、マイノリティへの差別禁止(アメリカの黒人差別を禁じる公民権法は64年に成立)、若年層の選挙権年齢の引き下げ(ほとんどの国が20歳から18歳へと変更)、環境意識の定着(「成長の限界」を訴えたローマクラブの報告書は72年に発刊)など、現代にも至る多くの問題が提起されることになったのは、この時代のことでした。自身も当事者だった批評家の絓秀実(すが・ひでみ)は、フェミニズムやエコロジーといった「『新左翼的な』文化は、すでに常識的な心性と化して(略)日常的な細部にまで浸透」したのがこの時代だったと回顧しています(『1968年』ちくま新書、2006年)

 大人になっていれば、アナはすでに還暦を迎える年齢になっています。そして、「Y世代」や「Z世代」と呼ばれるようになった彼女の子どもの世代は、新たな社会運動の担い手となっています。

 

「ビリーには未来がある!」――『リトル・ダンサー』

 もちろん、子どもには自らの手で将来を切り拓く力もあります。しかしそれを後押しするには親の理解と協力、つまり親が子どもを理解する力がなければ、子どもは自らの人生を歩むことはできないでしょう。

『リトル・ダンサー』(スティーブン・ダルドリー監督、2000年)は、イギリスの炭鉱地であるダーラムを舞台に、11歳のビリー・エリオットがその地を抜け出し、ロイヤル・バレエ学校に入学、見事バレエダンサーになるまでの軌跡を描く作品です。父子家庭で、父ジャッキーと兄トニーは炭鉱夫として働いています。何よりも男らしいことが求められる炭鉱労働者の社会で生きるため、父親は、音楽に興味を示すビリーをボクシング教室に通わせます。

 ところがある日、ビリーはふとした偶然からバレエ教室に足を踏み入れ、踊ることの楽しさに開眼します。この時、彼の隠れた才能を見出すのは、地元の専業主婦でバレエ教室の教師を務めるウィルキンソン先生で、彼にロイヤル・バレエ学校の受験を勧めます。『ドイツ零年』のエニングと違って、彼女はビリーに自分の夢を託したのです。もっとも、ボクシング教室に行くふりをしてバレエ教室に通っていたことがばれて、ビリーの父親は烈火の如く怒ります。父親にしてみれば、バレエダンサーはゲイ男性がやるものにしか見えません。

 イギリスの労働者文化を分析した名著に、若年層がいかに労働者階級から抜け出すのが困難なのかを克明に綴った名著に『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス、熊沢誠・山田潤訳、ちくま学芸文庫、1996年)があります。この文化人類学的な研究が明らかにしたのは、イギリスの階級構造があまりにも強固であるために、労働者階級の子どもたちは自助努力や立身出世などが建前に過ぎないことを早くから見抜いており、ここから社会階層上層のための制度、とりわけ学校などに背を向けて対抗的な文化を自ら作りあげるというものです。それはまた、彼らがプライドを維持していくために必要なことでもあることも強調されています。つまり、労働者意識こそがむしろ階級社会を強固にしてしまうという皮肉があることを指摘するものです。

 映画の時代背景にも注意する必要があります。作品が展開するイギリスの1984年といえば、79年に発足したサッチャー保守党政権と労働組合がもっとも激しく対立していた年に当たります。サッチャー政権は、1970年代から続く景気低迷と生産性の低さ(「イギリス病」と呼ばれました)が、労働組合の賃上げ要求と繰り返されるストライキのせいだとして、違法ストを厳罰化するなどの労働法改革を掲げ、全面的な対決姿勢を取ります。彼女は回顧録で「組合は、不十分な生産に対して法外な賃金を要求して多くの組合員を失業させ、また、イギリス製品の競争力を弱めた」「私は1970年から74年にかけての保守党政権の歴史から推測して(引用者註:当時の政権は労組に妥協した)、炭鉱ストに対処すべき時が来ることをほとんど疑っていなかった」と記しています(マーガレット・サッチャー『サッチャー回顧録』石塚雅彦訳、日本経済新聞社、1993年)。こうして、労働組合は炭鉱を閉鎖するピケ活動を全面的に展開し、警官隊との小競り合いが各地で起きることになったのでした。

 映画では、当時の雰囲気が忠実に再現されています。ビリーの父と兄もこのピケに参加し、生活のために止む無くスト破りをする同僚を面前で非難します。もっとも政権の改革によってスト参加者には給与が支払われず、クリスマスにはビリーが大事にしていた母親の残したピアノを壊して燃料にせざるを得ないほどに生活は困窮していきます。強硬姿勢に出るサッチャー政権に組合の抵抗が負け戦となりつつあることは、時間が経つにつれ、明らかになっていきます。バレエ教室のウィルキンソン先生は「あの子まで酔いどれの炭鉱夫にさせるつもりなのか」と父親に啖呵を切ります。

映画『リトル・ダンサー』より

 当時流行った曲に合わせてビリーを演じる俳優ジェイミー・ベルが披露するダンスは見事としかいいようがありませんが、そんなビリーの踊りを目の当たりにした父親は、彼の才能を認めるに至ります。ただ、一度逃したオーディションを今度はロンドンで受けるため、上京のための資金を工面しなければなりません。そのため、彼は引き裂かれる想いでスト破りを決行します。詰め寄るトニーに彼は涙ながらに反論します。「俺たちに未来が? おしまいだ。だがビリーには未来がある」――没落する炭鉱地と衰退する職業にしがみつくのではなく、未来をビリーに託すことに望みをかけることを宣言するこのシーンは、映画のおそらくもっとも感動的な場面です。

著者情報

同志社大学教授

吉田徹

よしだ とおる

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。

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