性知識イミダス:「ジェンダー」について知ろう(前編)〜「ジェンダー平等」が目指すものは?
イミダス編
(構成・文/加藤裕子)
――「ジェンダー不平等」や「ジェンダー・ギャップ」のように、ジェンダーが「女性差別」や「男女間の格差」の問題を扱う場で使われることも多いと思います。これらは、これまでフェミニズムが訴えてきたことでもあります。ジェンダーの問題=フェミニズムの問題なのでしょうか。
答えから言うと、必ずしもそういうわけではありません。けれども、ジェンダーという概念がフェミニズム運動と密接に結びついていることも事実です。この辺りの機微を少しでも理解していただくために、軽く歴史を振り返ってみたいと思います。
「ジェンダー」という言葉は、もともとは単なる文法用語でしたが、1950年代に心理学や精神医学の領域で、人間には男と女しかいないとする「性別二元論」では説明できない性を表す言葉として使われるようになりました。つまり、ジェンダーという概念の由来は、今日の言葉でいえば、フェミニズムよりもむしろトランスジェンダーに関わる議論の中にあるのです。
しかしその後、1960年代後半から盛り上がりを見せた女性解放運動(ウーマン・リブ)の影響の下、フェミニストの学者たちが、性役割や性差を含む意味で「ジェンダー」という言葉を導入し、発展させてきました。
フェミニズムは、(集団としての)男性と女性との間に差別や格差、暴力が存在するということを指摘し、そうした現実の変革を目指す思想であり、社会運動です。変革すべき現実の土台にあるのは、「男はこうあるべき、女はこうあるべき」という性役割規範と、それを支える「男とは本質的にこういうもの、女とはもともとこういうもの」という性差の固定観念です。そこから、男性であること、女性であることは、セックス(生物学的な性別)に基づく先天的な属性ではなく、文化や社会によって形作られるものだという意味で、「ジェンダー」が使われるようになったのです。つまり、先ほど説明したジェンダーの概念の土台を作り上げてきたのは、まさしくフェミニズムだったわけです。
日本では1980年頃まで、今ではフェミニズムと結びつけられる社会的、経済的、政治的な課題は「婦人問題」「女性問題」と呼ばれていました。しかし、これでは問題が女性の側にあるように聞こえてしまいます。問題はむしろ男性の側、あるいは男女の関係性全体が不平等だというところにあるわけです。そこで、男女の関係性全体を表すものとして「ジェンダー」という言葉が次第に使われるようになってきたのです。ただし、後で述べるように、それに対して激しい攻撃も行われたのですが。
近年政府が掲げる「女性活躍推進」などに見られるように、現在でも「ジェンダー平等」をうたいながら、「女性が活躍するためには女性がもっと頑張らないといけない」という話に置き換えられてしまうことが多々あります。このように、「ジェンダー」という男女の関係性全体を表す言葉を使っているのに、もっぱら女性の側に問題解決への努力が求められてしまうのは、かつての「婦人問題」のような捉え方が残っているということなのでしょう。
一方、「男女平等」と言ってもいいような場面でも「ジェンダー平等」という言葉を使うのがなぜかというと、いわゆる「普通の男性」「普通の女性」という二元的な性別の観念から何らかの意味で外れる「性的マイノリティ」と呼ばれる人々を排除しないようにしよう、という流れがあるからです。これは、「ジェンダー平等」が使われるときのポジティブな側面だと思います。ただし、これまで性差別、女性差別という言葉で指摘されてきた問題が過去のものになったわけではありません。「男女平等」と「ジェンダー平等」は重なりつつもまったく同じ理念ではないことを踏まえつつ、どちらが正しいという二分法に陥ることなく、問題となる事柄をなるべく適切に表せるように使い分けるのがよいと思います。
ジェンダー平等とバックラッシュ
――日本では2000年代に、保守系の政治家を中心とする「ジェンダー・バックラッシュ」と呼ばれるジェンダー平等へのバッシングの動きがあり、ジェンダーという言葉そのものすら排斥の対象となりました。なぜジェンダーに対して、そのような強い反発が起こるのでしょうか。
端的に言えば、明治期の国家主義や家父長制的な家族を復興させたい人々が、個人の人権や自由を重んじるフェミニズムや包括的性教育を敵と定めてキャンペーンを張ったということです。
およその経緯は以下のようなものでした。ジェンダー・バックラッシュ(バックラッシュ=反動、揺り戻し)の主な舞台になったのは、教育現場です。日本では1992年が「性教育元年」と呼ばれ、国際的なスタンダードである、人権を尊重し、伝統的性役割の解消も含めた包括的性教育へと行政も踏み出しました。
同時期に、いわゆるジェンダー・フリー教育も始まりました。これは、男性であろうと女性であろうと、まず人間としての共通性があるということを前提に、子どもたちを男らしさ、女らしさという固定観念で縛るのをやめよう、という教育です(なお、「ジェンダー・フリー」という言葉は和製英語に近いもので、個人的にはあまり有効な概念とは考えませんが、それはまた別の話です)。
ところがその10年後、安倍晋三元首相や山谷えり子参議院議員をはじめとする保守系の政治家たちが、日本の実践的な包括的性教育や、ジェンダー・フリー教育が「過激」で「行きすぎ」ていると非難し、激しいバッシングを繰り広げました。これがジェンダー・バックラッシュです。現在では、こうした活動が旧統一教会と密接に結びついていたことが次々に指摘されていますね。
バッシングする側は、知的障害のある生徒たちに性器の名称などを具体的に教える性教育を「不適切」であると決めつけ、教育現場を大いに萎縮させました。またジェンダー・フリー教育については、男女の根本的な性差をなくそうとするものだとみなし、「肉体的な性差を全面的に否定して、男でも女でもない“中性人間”を作り出そうとしている」といった妄想のもと、「男女を同じ更衣室で着替えさせろというのか」などと事実を捻じ曲げた非難をぶつけたのです。実際には、肉体的な性差の存在を否定したり、なくそうと主張したりする人はほとんどいなかったにもかかわらず、ジェンダー・フリー教育へのバッシングは続けられ、さらには「ジェンダー」という言葉自体が教育の場で使われなくなってしまいました。
現在はこうしたバッシングは退潮し、包括的性教育への機運も改めて盛り上がりつつあります。しかし男女平等政策の遅々たる歩みをみる限り、男と女は根本的に違うのだから社会的地位や役割も違うべきなのだ、という性別二元論の世界観が揺るがされることに耐えられない政治家たちは、おそらく相当数いるし、大きな影響力をもっていると思います。
「女性も男性も大変だ」で思考停止してはいけない
――ジェンダー平等を求める動きに対しては、男性の側からしばしば「それは男性差別だ」「男性だって大変なんだ」という声も上がります。