性知識イミダス:「ジェンダー」について知ろう(前編)〜「ジェンダー平等」が目指すものは?
イミダス編
(構成・文/加藤裕子)
なぜ男性からそのような声が上がるかというと、ひとつには、特に2000年代以降、男性も含めて非正規雇用が拡大し、かつてのように安定した人生設計を描くことができない男性が増えてきたということがあると思います。男性であるがゆえに苦しい、という思いには、それなりの根拠があるのです。だからと言って、「女性の方が優遇されて自分たちが職を奪われていることが原因だ」といった認識は、やはり歪んでいると言わざるを得ません。現実は、男女の収入格差は根強くあるし、経済界でも政治の世界でも、社会の主流で実権を握っているのは男性ばかりです。不遇な男性を搾取しているのは女性ではなく、こうした強者の男性であるにもかかわらず、攻撃の矛先を女性たちに向けるのはおかしい。
自分のことを弱者だと主張する男性も、よくよくみれば男性であるだけである種の特権を獲得しています。卑近な例で言えば、公共スペースで痴漢に遭いにくい、夜の繁華街をひとりで歩けるといったことは、すでに特権なのです。こうした自分の特権性を疑わずに済むことは、ジェンダー問題に限らず、マジョリティに属する人たちに起こりがちなことです。
たとえば、バスや電車は自分の足で立って歩ける多数派が使いやすいように設計されている「健常者優先車両」と言えますが、多数派に属する健常者は優遇されていることが当たり前になっていて、その設計が車椅子で移動する人には使いにくいということに、なかなか気づきません。もし、公共交通機関がすべて車椅子優先で、空いたスペースがあったら健常者も乗っていいという制度設計だったらどう感じるのか。そんな風に視点を変えてみることは、とても大切です。
人は自分の特権性を指摘されると、えてして反発しがちですが、「そういえば、自分も男というだけで下駄を履かされてきたな」と気づける男性が増えれば、女性の立場への見方も変わるのではないでしょうか。
一方、先ほども言ったように、男性は男性で「男は●●すべきだ」「男の子なら泣くんじゃない」「男は家族を養って一人前」といった要求に苦しめられているという現実があることは事実です。女性からそういう言葉を投げかけられて傷つく男性も少なくないでしょう。そうした女性のふるまいは責められてしかるべきだと思います。しかし、男性がこのような苦しさを解消するには、女性全般に攻撃の矢を向けるのではなく、また「女もつらいが男もつらい」と言って現状追認に逃げ込むのでもなく、そもそも「男だから、女だから」と分けて考えるのをやめてみるしかありません。性役割や性差別をそのままにして、男性も女性もそれぞれ大変なんだ、ということで思考停止してしまっていても、物事は良くなりません。男性の苦しさを解消するには、男性か女性かによって人生の枠が決められてしまうような今の社会構造を変えていくことが必要なのです。
現実は「ジェンダー平等」に向かっている
――「ジェンダー平等」が掲げられるとき、たとえば「女性が多い企業は業績を伸ばしている」というような文脈で「だからジェンダーバランスが大事だ」と言われる場面も多いように思います。その一方で、公的なシンポジウムや有識者会議のメンバーが全員男性であるケースも少なくありません。掛け声としての「ジェンダー平等」と実際の意識とのギャップを感じます。
それはつまり、企業や国策にとって都合のいい部分だけが切り取られて、ジェンダーが議論されている、ということですね。もちろん、企業が利益を上げたり、国が富んだりすること自体は良いことですし、ジェンダー平等がそうしたことにつながるので推進しよう、という考えは問題ないと思います。ただ、仮にジェンダー平等が企業の利益や国力向上に結びつかないとしても、ジェンダー平等はそれ自体として価値があり、推進すべき理念であるはずです。個人の人権、自由、平等という近代社会、近代国家の非常に基本的な理念の観点で言えば、企業の利益になろうがなるまいが、あるいは国が富もうが富むまいが、性差別は悪いことだし、性役割の解消はなされるべきなのです。誤解しないでほしいのですが、私は男女平等と経済政策が二者択一だと言っているわけではありません。一部の思想家が言うような、皆で平等に貧しくなろうというような考えには明確に反対です。あくまでも人権や平等を尊重しつつ、同時に、いかに経済を活性化させ、賃金や福祉を向上させるかが、政治家や企業家に問われる課題であるべきでしょう。
――そう考えると、今掲げられている「ジェンダー平等」が本当に人権尊重という前提を踏まえているのかどうか、みていくことが必要ですね。日本のジェンダーギャップ指数が146カ国中116位(2022年)という状況は、いったい、いつになったら変わるでしょうか。
私自身がジェンダー論の勉強を始めてからの三十数年というスパンでみても、日本のジェンダー平等の歩みは本当に遅々としています。その背景には、1970年代から1980年代のフェミニズムの影響を受け、1990年代にジェンダーという言葉が一般的になってきた矢先に、先ほど述べた大きなジェンダー・バックラッシュの波が起こり、ようやく近年、再び社会に定着してきたという、屈折した経緯があります。
もっとも、バックラッシュというものは事態が進んだときにこそ起こるわけですから、それは逆説的に、以前に比べればジェンダー平等が進みつつあったことを示していたとも言えるでしょう。1980年代には男女雇用機会均等法が作られ(その評価についてはさまざまな議論があるとはいえ)、また「セクシュアル・ハラスメント」が問題視されるようになりました。女性の4年制大学進学率をみると、1960年代はほんの数%、1980年代には十数%になり、現在は50%を超えています。長らく男性加害者に有利だった性犯罪に関する刑法の規定も、2017年に大きく改正され、今後もさらなる見直しが予定されています。このように、1~2世代の間に女性の社会的地位が向上し、人生の可能性の幅も拡大してきたことは、紛れもない事実なのです。長い目でみれば、ジェンダー平等をめぐる現実は確かに少しずつ良くなっていると思います。
しかし一方、それがあまりにも遅々たる歩みであり、諸外国と比べてなお不平等が根強くあること、また日本の経済的停滞やコロナ禍の影響が、とりわけ弱い立場の女性に打撃を与えていることが、ご質問のような停滞感、閉塞感につながるのは無理もないと思います。とりわけ、ロスジェネ以降の若い世代にとってはそうでしょう。こうした状況をいつになったら変えられるのかと問われれば、残念ながら私にも明快な答えはありません。引き続き、あらゆる場で差別解消の努力を続けるしかありません。特に喫緊の課題は、政治の場における女性議員のプレゼンスを高めることでしょう。
――若い世代でも、ジェンダー平等意識が高い人はまだ少ないのでしょうか。
確かに、若者の中でもジェンダー平等の意識が高い人たちは一握りだと思います。今のように不透明で停滞した時代には、保守的なものになんとなく安心感を求める感覚も強まっていますし、男が外で働き女は家庭を守るという性別役割分業に賛成する若い世代も少なくありません。統計的にも、諸外国に比べて、男性の家事・育児時間が圧倒的に短い状況が続いています。たとえフルタイムの共働き同士の夫婦でも、家事・育児の大部分を女性が担う二重負担、さらには介護も含めた三重負担の状況が固定化しているのです。
ただ、こうした現状を踏まえた上で言えば、これは大学などで若者に接している自分の希望的観測に過ぎないかもしれませんが、異性への接し方や性役割意識全般については、口ではリベラルなことを言っている50代以上の男性たちなどよりも、「自分は男尊女卑です」などといきがって言っているような若い男性の方が、実生活レベルではまだしもマシで、セクハラに批判的だったり、家事や育児を担ったりすることが多いのではないか、という気もします。また、最近の漫画でも、いわゆる家父長制的というか、男尊女卑的なことを言う男性の登場人物に対して、別の男性が「いつの時代だよ」みたいなことを言うシーンがごく普通にあったりしますし、そういう感覚がじわじわと浸透してきているのではないかなとは思います。自信をもって断言はできないのですが……。