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連載

保守思想入門

第1回 序章「保守思想」とは何か~一つの「生の哲学」として

浜崎洋介(文芸批評家)

 それでは「保守」とは何かとなると、実はかなり怪しい。①男女平等やジェンダーフリー(性役割をめぐる固定的通念からの自由を求めること)の思想に批判的な人々を指すこともあれば、②自国を愛し、外国人に対して警戒的な態度を意味することもある。③時にアメリカでのように、「小さな政府」を目指す立場を「保守」と呼ぶことさえある。結局のところ「保守」といっても、「自分はリベラル(あるいは「左翼」)」という、消極的な意味合いしかもたないのかもしれない。(『保守主義とは何か』ⅰ~ⅱ頁、①、②、③は引用者補足)

 宇野氏が指摘するように、「保守」は、たしかに積極的=一義的定義には馴染みにくいのかもしれません。ただ、その消極性にこそ「保守」の可能性が隠れているのだとしたらどうでしょうか。以下、詳しく、①~③のトピックについて見ておくことにしましょう。
 まず、①「男女平等やジェンダーフリーの思想に批判的」な態度ですが、「自然」から与えられた「性」——それがいかなる性であろうが——を自己の基礎に見出し、それを尊重し、それに従うという態度において、たしかに保守は過激なジェンダーフリーの思想に抵抗します。ジェンダーフリー論者は、男女の「ジェンダー」は人為的に作られた制度であり、それゆえ、それを肯定するのは、制度に寄り掛かった権威的で抑圧的な態度(差別)だと言いたいのでしょう。が、それを言うなら、ジェンダーフリー論だって同じことです。それは、一部の人々によって意識的に唱えられた現状変革論であって、それ以外の人たち——大多数の生活者——にとって、それが抑圧的に機能することだって十分に考えられるのです。
 だからこそ、保守的人間にとって重要なのは、制度が人為的・権威的か否かという点ではなくて——全ての制度は人為的かつ権威的です——、その制度が、歴史的(垂直的)、社会的(水平的)な関係性のなかで「調和」しているのか否かという点、さらに言うなら、一つの自由が、他の自由——過去をより多く生きている人間の自由や、無意識の慣習を生きている人間の自由——と折り合っているのか否かという点なのです。要するに、過去からもたらされた習慣や秩序において、そこに異常な不整合や不条理がない限り、それを是(ぜ)とし、むしろ、それを恣意的に変えることに抵抗すること、それが保守の基本的態度となります。
 そして、これは、②の「自国を愛し、外国人に対して警戒的な態度」を取ることにしても、③の「『小さな政府』を目指す立場」にしても、基本は同じことだと言えます。
 ➁の「自国愛」に関してですが、保守は、それを自然から与えられた土地との関係、その土地に根差して暮らす人々の生活から湧き上がってくる自然な感情——愛着と親しみ——として肯定します。が、だとすれば、それが、土地に根付いている者(すでに土地と調和している者)と、土地に根付いていない者(調和できるかどうか分からない者)との区別や、外から来る外国人に対する「警戒的な態度」を導いたとしても何の不思議もありません。
 さらに、③の「小さな政府」への志向にしても、コミュニズムやファシズムのような全体主義の暴力(個人と社会の調和を乱す理念)に対する抵抗、あるいは、個人の努力の結果として得た所有物を、歴史も言葉も共有しない赤の他人(共同性を持たない移民たち)に分配しようとするアメリカ連邦政府の巨大な権力(土地との調和を乱す力)に対して発された言葉として考えれば、それも至って自然な志向性だと言えるでしょう。実際、「全体主義」が吹き荒れる第二次世界大戦前、「小さな政府」を言ったフリードリヒ・ハイエク(1899~1992)は、もちろん、何でもありのアナーキーを目指していたわけではなく、ヨーロッパの「自生的秩序」(自然に醸成された秩序)による〈調和=自由〉をこそ考えていた経済思想家なのです。
 しかし、ここで注意したいのは、だからといって保守は、男/女の区別や、自国愛や、外国人への警戒心や、小さな政府志向に囚われることも嫌ってきたという事実です。言い方を換えれば、保守は、それらの観念がを是とはしないのです。何にしても行き過ぎを警戒し、そこに不調和の兆しを読み取る力、それが保守の平衡感覚なのです。
   たとえば、ジェンダーフリー批判が行き過ぎると、それは「性役割」を固定化し、その役割を是が非でも守り通そうとする単なる陋習(ろうしゅう)=固定観念と化してしまいます。しかし、社会的状況の変化によって「性役割」は当然変わっていくことはあるし、それは実際、変わってきたのです。にもかかわらず、人々を一定の観念にしばりつけてしまえば、社会はその生命力を失って、むしろ、男女の「調和」は崩されてしまうことにもなりかねません。
 そして、それは自国愛や外国人への警戒心にしても同じことです。それらの観念が行き過ぎてしまえば、夜郎自大(やろうじだい)な自己絶対化(日本主義・偉大な戦前の賛美)や、他者に対する固定観念(嫌韓・嫌中)を呼び寄せてしまい、結果として、それが他者に対する距離感覚を麻痺させてしまうことにもなるでしょう。しかし、そうなれば、他者と折り合うための道は見失われてしまうわけで、結局、社会の「調和」は遠ざかってしまうことになります。
 そして、「小さな政府」の行き過ぎも危険です。それが観念化してしまうと、過激なリバタリアニズム(自由至上主義)や、ネオリベラリズム(新自由主義)、あるいは、市場原理主義などといったイデオロギーを呼び寄せてしまい、最終的には「国家」という概念、人間共同体に「調和」をもたらすために不可欠な概念さえ見失ってしまいかねません——たしかに国家は戦争をしますし、社会・経済を混乱させることもありますが、それに対処し、平和をもたらすのもまた国家なのです——。「政府」は、時と所と立場に従って適切な大きさが必要なのであって、いつだって「小さな政府」がいいなどということはあり得ません。
 ことほどさように、保守とは、宇野重規氏の言う「消極的な意味合い」——要するに積極的ではない姿勢——においてこそ、実は、過激で恣意的な「変革の理念」(ロマン主義的=左翼的理念)に対する抵抗と、「反動の観念」(右翼的観念)に対する抵抗の姿勢を、両者のあいだにあって人々の「調和」をこそ志向する思想の可能性を見出すことになるのです。私の好きなウィリアム・ジェイムズ(1842~1910)の言葉に、「新しい真理とは(中略)、最小の動揺と最大の連続性とを与えるようにして旧い意見を新しい事実にめあわせる。一つの理論が真であるかどうかということは、その理論がかかる『最大と最小の問題』をどの程度に解決しえているかに比例して計られる」(『プラグマティズム』、桝田啓三郎訳、岩波文庫)というのがありますが、まさしく、保守が見出す〈真理=調和〉も、この「最小の動揺と最大の連続性」の感覚によって見出されるものだと言っていいでしょう。
 要するに、「保守思想」とは、生成変化する自然を前提としながら、そのなかで、ともすれば「変革の理念」(未来の夢想)に呑まれていってしまう人々と、その反対に、「反動の観念」(過去への執着)へと傾いていってしまう人々に対して、私たちの「慣れ親しみ」という経験的事実に錘(おもり)を垂らすことを勧め、それによって未来と過去とのでの「平衡」を見出そうとする思想、その「調和」の道を模索しようとする思想だということです。

一つの「生の哲学」として——カール・マンハイムの「保守主義」論 イメージ画像(『保守主義的思考』、森博訳、ちくま学芸文庫)とはいえ、そんなのはお前の意見であって、決して客観的定義ではないではないかという向きもあるでしょうから、最後に、それに対しても答えておくことにしましょう。なるほど、これまで語ってきたことは、たしかに私の考える「保守思想、その可能性の中心」といった傾向がないとは言えません。が、それは、西欧の社会思想史研究において、一般的に認められてきた「保守」の定義であることも、また事実なのです。

Ⅲ 一つの「生の哲学」として——カール・マンハイムの「保守主義」論

 とはいえ、そんなのはお前の意見であって、決して客観的定義ではないではないかという向きもあるでしょうから、最後に、それに対しても答えておくことにしましょう。
 なるほど、これまで語ってきたことは、たしかに私の考える「保守思想、その可能性の中心」といった傾向がないとは言えません。
 たとえば、二〇世紀に「知識社会学」(知識の社会拘束性を強調し、思想と時代との関係を歴史的に研究しようとした社会学)を提唱したことで知られる社会学者のカール・マンハイム(1893~1947)は、「保守主義」を「伝統主義」から区別して次のように述べていました。いかにもの学者の文章で、少々硬いのですが引いておきましょう。

著者情報

文芸批評家

浜崎洋介

はまさき ようすけ

1978年埼玉生まれ。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。京都大学大学院特定准教授。2022年『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)で、第31回山本七平賞奨励賞受賞。そのほかの著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉イロニー・演技・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文藝春秋)、『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(NHK出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』『日本人の「作法」 その高貴さと卑小さについて』(いずれもビジネス社)がある。

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