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連載

第13回 生まれてきて、よかった?(後編)

川口好美(文芸批評家)

もう一度、イエスと共に生きる

 マルコ福音書の末尾には、弟子の女性たちがイエスの墓を訪ねてみたところ、そこに座っていた謎の人物から〝ナザレ生まれのイエスを探しておられるようだが、彼はよみがえって、もうここにはいないよ。ガリラヤへ行けば、会えるはずだ〟と告げられたというエピソードが、さらっと書かれています。※11 ガリラヤは、イエスが活動をはじめた場所で、いわばキリスト教の原点です。だから、わたしはこのエピソードを、生きたイエスのすがたを大事にしたマルコからの、こんなメッセージとして受けとめます。
 〝今からでも遅くない。原点にかえって、イエスのことばと行いを思い出し、かみしめよう。そうすればイエスに再会できるんだよ。イエスはあなたの中で、何度でも復活するんだよ〟
 だとすれば、イエスの復活は、終末の時にイエスが救世主(キリスト)として再臨し、神の最後の審判が下されて……という壮大な物語とは、関係がうすい気がします。イエスがガリラヤで人々に伝えようとしたのって、すごくざっくりまとめれば、つぎのような事柄だったのですから。
 〝立ち場や、世の中の決まりごとにとらわれず、目の前の他人を思い切り愛せばいい、助けたいと感じたら、迷わず助ければいい。楽しく、分け隔てなく、みんなで一緒にごはんを食べよう。それこそが、神の心にかなう生き方なんだよ〟
   ちなみにイエスは、いつも神にたいしてアッバと呼びかけていたそうです。日本語にすれば、おとうちゃん、というニュアンスです。この気軽なノリは、ユダヤ教の感覚からは大きくズレていました。
 では、パウロはどうでしょう。パウロのことばの影響で、その後イエス復活の物語は、複雑な教えに発展しました。でも、そこにはもともとマルコとも共通する願いが込められていたはずだと、わたしは考えます。
 パウロはイエスにかんして、ほとんど具体的な事柄を語りませんでした。そのかわり、十字架に象徴されるイエスの死の意味を、深く考えつづけました。注目したいのは、パウロが〝弱さ〟や〝愚かさ〟や〝躓(つまず)き〟を、強調したことです。ギリシャのコリントスという都市の教会に送った手紙に、こんなことが記されています。
 〝われわれは、十字架につけられたキリストのことを伝えたいんだ。そんなキリストは、ユダヤ人にとっては躓きであり、外国人にとっては愚かだろう。でもそれこそが、神の力、神の知恵であるキリストなんだ〟※12
 どういう意味でしょうか。わたしなりの考えを話します。
  自分が救世主だなんて、イエスは主張しませんでした。ただ、神の国では善・悪や、価値・無価値が細かいルールによって決められるのではなく、すべてのいのちが無条件に肯定されるということ、そんな神の国が今まさに、この場所で、実現されつつあるということ、その喜びにあふれた世界に自分も加わりたいと、心から願っていること。このようなシンプルな信念を、ことばと行動で示しただけなのです。
 だからこそ、十字架につけられて死ぬことは、イエス本人にとっても衝撃だったはずです。十字架の上で〝神よ、なぜわたしを見捨てたのですか〟という絶望にみちた叫びを発したのが、その証拠です。それは、どんな時も前向きに振るまっていたイエスが、さいごに見せた〝弱さ〟でした。
 そんな様子を見て、イエスに直接かかわりがなかった人たちは、なんてバカな奴だと、イエスの〝愚かさ〟を笑ったでしょう。弟子たちの中には、失望してグループから抜けた人もいたでしょう。抜けないまでも、〝あの人は噓をついていたんだろうか〟とイエスを疑った人もいたでしょう。イエスを死なせてしまった罪悪感に苦しんだ人もいたでしょう。こうした動揺が、パウロの言う〝躓き〟だと思います。
 個人個人の中に、心の揺らぎがあったはずです。なぜそんな揺らぎが生じたのでしょう。それは、その人がかつて、イエスと真剣にことばを交わし合い、一生懸命、共に生きようとしたからですよね。だから、十字架に思いをはせ、〝弱さ〟〝愚かさ〟〝躓き〟を胸に刻むことは、イエスと過ごした時間を生き生きと思い出すことに、つながっているのではないでしょうか。
 ですのでわたしは、パウロの十字架へのこだわりを、こんなふうに受けとめます。
 〝あの人の死の衝撃から立ち上がり、もう一度、あの人と生きた時間を生き直すこと。それが復活だ。イエスだけじゃない。その時、あなた自身もよみがえるんだ。だからこそ、十字架がもたらした心の揺らぎを、いつも忘れずにいよう〟って。
 相性が悪そうなマルコとパウロを並べた理由が、わかってもらえたでしょうか。付けくわえれば、パウロがすごいのは、イエスを直接知らなくても、イエスとの心の交流が同じように可能だと、信じていたことです。
 今回で「再臨運動」の話をまとめるつもりでしたが、収まり切りませんでした。ごめんなさい。この連載は、次回が最終回です。「再臨運動」の終わりと、内村さんのその後について、そして、これからを生きるわたしたちについて、さいごに一緒に考えましょう。

著者情報

文芸批評家

川口好美

かわぐち よしみ

1987年大阪生まれ。2016年、「不幸と共存──シモーヌ・ヴェイユ試論」(『群像』2016年12月号、第60回群像新人評論賞優秀作)でデビュー。2021年から、静岡県川根本町の小集落・沢間で「本とおもちゃ てんでんこ」を家族で営む。著書に『不幸と共存 魂的文芸批評』(法政大学出版局)がある。

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