リベラル――どこから来て、どこに行くのか
吉田徹(同志社大学教授)
作品の舞台は、作家ネイサン(ロスの小説では彼の分身としてたびたび登場する人物)が、1996年の時点から回顧する1960年代アメリカ。ストーリーは、ネイサンが友人の兄であったシーモアの半生を追体験していくという形で進行します。ユダヤ系アメリカ人であるシーモアは、高校時代はアメフト部のスター選手、第二次世界大戦で従軍して終戦を迎え、ミス・アメリカ大会にも出たことのある美貌を持つドーンと結婚、父親の手袋工場を継ぎます。「彼の人生はこんな風にずっと順調だと思っていた」――ネイサンはこう推察しますが、60年代に盛行を極める反戦運動、公民権運動といった歴史的事件によって、シーモアの人生は大きな変転を余儀なくされます。
美男美女で絵に描いたような幸せな家庭を築くシーモアとドーンの間に生まれた一人娘メリーは、多感な年頃を迎え、両親との間に葛藤を抱えます。良妻賢母のドーンに劣等感を抱き、そこから来たであろう父シーモアに対するセクシャルな興味も満たされることがありません。彼女は生まれつき吃音という設定ですが、これも旧来の価値観の中で成功し、満ち足りている両親世代との違和感の刻印として設定されています。彼女の違和感は、高校生になって反戦運動へとのめり込むきっかけとなります。メリーは、アメリカの外の世界で起きていることに関心を持たない両親にこう言い放ちます。「戦争に関心ない幸せな中産階級のくせに」「マルクスを読んで。改革は田舎町では始まらないの」――彼女はそのまま過激派組織にかくまわれ、各地で世界革命を目指すテロ活動に参加することになったことが示唆されます。

映画『アメリカン・バーニング』より
このように、1960年代から70年代に起きた大きな価値観の断絶を、アメリカの政治学者ロナルド・イングルハートは当時「静かなる革命」と呼び、各国での意識調査から、戦後世代は親世代と異なり、物質的な豊かさよりも、自己表現や自己決定権を優先するようになったと指摘しました。ここから、マイノリティ運動やフェミニズム、エコロジーといった新しい思想が展開していきます。メリーの闘争仲間であるリタは父シーモアにこういいます。「彼女はあんたの所有物じゃないのよ。あんたの工場や高級車とは違うの」。
日本では「団塊の世代」として知られるこの世代は、人口も多く、高度成長の豊かで平和な時代に高等教育を受け、さらに60年代の「政治の季節」(丸山眞男)に青年期を迎えたことで、各国で学生運動の主体となりました。政治学者イマニュエル・ウォーラーステインの見立てを借りれば、彼らはアメリカのベトナム戦争に代表される帝国主義と、ソ連に代表される硬直した官僚主義に対する広範な「反システム運動」を各国で展開することになりました。旧来の共産党主導の左翼と異なり、この流れは「新左翼」と呼ばれる潮流を、その後作りあげることになりました。1年間行方不明になった後、ボロボロになって帰郷してきたメリーを見て、シーモアは嘆きます。「戦争やベトナムは口実に過ぎない。奴らは世界に穴を開け、すべて吹き飛ばしたかったんだ」。
ロスの原作は様々な読み方が可能ですが、60年代を境に、親世代が作りあげようとし、謳歌した牧歌的な世界が、子世代が掲げる新しいリベラルの価値によって、脆くも崩れ去る風景を描くものです。ネイサンは冒頭、戦後を「アメリカは戦争に勝利した。大恐慌も終焉を迎え、人々の苦悩は終わった。高揚感が人から人へと伝染し、皆が一体になり歓喜に酔いしれた瞬間だった。あんな経験はあの時が最後だ。あれから今に至るまで」と、この喪われた時代を、半ば郷愁をもって振り返ります。それでも、闘争の旅から戻ったメリーの吃音が治っていたことに象徴されるように、戦後世代は新たな時代をわが物としていったのです。
リベラルの上滑り――『ザ・スクエア』
「静かなる革命」を成し遂げた戦後世代も親になり、彼らの価値観は社会の常識となっていきます。女性の権利や寛容の精神、環境主義など、70年代以降に新たな常識として定着したものはたくさんあります。もっとも最近では、いわゆる「リベラル」な価値は欺瞞的なものとして批判されることがあります。曰く、物事に反対してばかり、いい恰好してばかり、口ばかりで行動が伴わず、上から目線である等々……ネットなどでよく見られる批判です。
こうした現代のリベラルの「嫌らしさ」を偽悪的に描くのは、カンヌ映画祭のパルムドールを受賞した、スウェーデンのリューベン・オストルンド監督『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017年)です。
リベラルなインテリである主人公クリスティアンは、権威ある美術館のチーフキュレーターです。彼が美術館で取り組むのは4メートル四方の枠「スクエア」と呼ばれる展示物で、ここは「信頼と思いやりの聖域」であり、その中で「誰もが平等の権利と義務を持つ」ものであるとされます(実際にスウェーデンで展示された企画です)。
この展示物がSNS上の「炎上商法」を用いて話題になったり、クリスティアンが女性に対して不誠実な態度をとったり、スマホを盗んだと疑われた移民系の子どもの抗議にクリスティアンが狼狽したりするなど、様々なエピソードが挿入されて物語は展開していきます。
映画の最大の見せ場は終盤のパーティで、「サル男」が10分間にわたって観客に暴力を振るうシーンでしょう(ちなみに、このサル男を演じているのは『猿の惑星』新シリーズで猿役を演じているテリー・ノタリーです)。本来は、パーティの単なる余興だったのですが、サル男は本当のサルの如くゲストに対して傍若無人に振る舞い、次第に暴力的になっていきます。とうとう耐えきれなくなった招待客は、最後の最後でサル男をリンチにかけます。

映画『ザ・スクエア』より
この場面については、オストルンド監督は心理学でいう「傍観者効果」を演出したかったのだ、と語っています。人々は目の前で想定外のことが起きた時、周りに人が多ければ多いほど、それに対処しないという傾向を持つことが知られています。例えば満員電車で目の前にお年寄りや障がい者がいたとして、席を譲るべきだと思いつつも、なかなかできないという経験は誰しもが持っているでしょう。他方で傍観者効果は、一旦反転すると「同調行動」となって、集団的な行動へと移り変わります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という心理です。
この映画では、「スクエア」というリベラルが持つ規範的な理念と、それを展示するクリスティアンや他の登場人物の行動との間の埋めがたい溝――劇中では文字通り不協和音を伴って――が、これでもかと例示されます。クリスティアンは窮地に追いやられると、方便を駆使して、自己保身を図ります。英語の「スクエア」には「つまらない」という意味もありますが、彼が繰り出す言い訳の多くはつまらないものです。他人からの暴力や無関心、敵意などの想定外の出来事を前にした時、口にされる正義や思いやりがいかに脆弱なのか。非常識を前にした時、リベラルの奉じる常識はいかに非力なのかが、劇中を通じてまざまざと見せつけられます。
『1900年』でも、アルフレードが象徴するリベラルの無力さが告発されたことを指摘しました。自らの価値こそが正しいと考える人々は、その価値に反発や違和感を持つ人々のことを理解できないゆえに、逆に非力になります。自ら労働者階級からインテリ知識人へと出世して、二つの異なる世界を知るフランスの社会学者ディディエ・エリボンは、リベラルな人間は、社会で「当たり前」であることがなぜそうなのかについて無意識であるゆえに、自分が住む世界以外に届く言葉を持っていない、と現代流のリベラルを手厳しく批判しています(※1)。
もっとも『ザ・スクエア』のクリスティアンは、離婚した妻との間の娘2人の面倒をみる中で徐々に自分のやるべきことを見つめ直し、自分なりのやり方で、それまで自分が犯した過ちを正そうとします。彼が、なぜ言い訳と自己弁明を止めて、改めて正義を尽くそうと決意したのか、映画では多くは語られません。しかし、その反省は、彼が面倒を見ることになった子どもたちからの視線と無関係ではないでしょう。すなわち、彼は将来世代のために正しい行いをしたい、という使命感と欲求に駆られたことで、自分自身を見直し、新たな一歩を踏み出す勇気を授かったのです。