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性知識イミダス:性的同意について知ろう(前編)~対等な関係性をつくるために

イミダス編

(構成・文/加藤裕子)

 バウンダリーをどう設定するかは「同意」と同じく、人によって違いますし、時や場所、相手によっても変わってきます。手をつなぐ、肩を抱く、頭を撫でることに対して、自分は「いい」と思ってもそう思わない人もいます。だから、きちんと確認することが必要なのです。

 ――「~していい?」と聞かれたときに「イヤだ」と言うのは、なかなか難しいと思います。「相手を傷つけたくない」「嫌われたくない」と思って、本心ではないのに「いいよ」と言ってしまうこともあるでしょうし、たとえノーと言えたとしても相手と気まずくなり「断った自分が悪いのでは」と自分を責める人もいるのではないでしょうか。特に女性は受け身の立場に置かれがちなので、悩む人も多いと思います。

 幼い頃から意思表示の大切さを教えられる欧米と違い、周囲との協調が重んじられる日本では、「イヤだ」と意思表示することに抵抗を持つ人は少なくないように思います。たとえ正直に自分の気持ちを言える間柄であったとしても、自分は「イヤだ」と言っていいんだ、ということがベースになければ、自分の気持ちを言葉にすることは難しいかもしれません。

 ひとつ気をつけなければならないのは、「イヤと言えずに困っている」のは女性だけではないということです。性暴力の被害者は女性が多く、ジェンダーの問題がDV(ドメスティック・バイオレンス)などの性暴力と深く関わっていることは確かですが、男性もまた「男らしさ」というジェンダーバイアスに縛られて窮屈になっているということもあります。当然ながら関係性は女性と男性だけではなく、あらゆる関係性に共通した課題です。

 本来、「イヤだ」と言っていいというのは、誰もが生まれながらに持っている権利、つまり人権です。権利というと日本では「わがまま」と捉えられ、嫌がられることも多いのですが、人権は「人間が人間らしく生きていくために欠くことのできない、誰にも生まれたときから備わっている権利の総称」であり、その中には「自分の生き方を自分で選んで決められる」ということが含まれています。特に性に関することは「人間らしく生きること」と深く関わっており、自分のからだのことや誰と関係をつくるかなどを具体的に選択していくことになりますから、性はまさに自分が自分らしく、幸せに生きていくための人権の問題なのです。

 日本では性教育が行き届いていないとよく言われますが、その基盤となるべき人権教育が不十分であることも課題で、そのことが性的同意に対する社会の理解の乏しさにもつながっていると思います。「レイプカルチャー」(性加害を軽視し、加害側を擁護して責任を矮小化したり、加害される側に対策や自衛を求めたり責任を転嫁したりする風潮)がはびこり、性暴力や二次加害が絶えないのも、人権意識の欠如からくるものだと言えるでしょう。

 1995年から2004年にかけて行われた国連の「人権教育のための国連10年」に合わせ、日本でも2000年に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」が成立しました。しかし、自分事として人権を学ぶ経験が十分であるとは言えず、社会全体での人権に対する理解はあまり進んでいないように感じます。自分の権利を守ろうと声をあげる人に対する激しいバッシングも、人権への誤解から生まれていると言えるでしょう。

 日本で行われている人権教育には、「誰もが人権のある人間である」という基礎や、人権を実現するための社会のしくみ(一義的には国や自治体など)について学ぶような内容が十分であるとは言えません。それよりも、人権問題は「思いやり」といった、私人間(しじんかん)の理解や心がけの不足によって起こるものとされがちです。「思いやり」が人権と結び付けられることで、他者の権利を侵すのは暴力であり、絶対に許されないことだという意識が根付かず、自分のパーソナルスペースが同意なく侵害されても、相手を思いやって自分が我慢してしまったり、周囲と波風を立てないことを優先したりするということになりやすいという問題があります。

 自分も相手も「自分のことは自分で決めていい、それは権利なんだ」ということは、これまで述べてきた同意とバウンダリーの大前提です。この人権意識が抜けていると、いくら同意やバウンダリーを唱えても言葉だけがひとり歩きするということになってしまうと思います。

【現実の人間関係においてはどんなふうに性的同意を実行すればいいのでしょうか?「性的同意について知ろう(後編)~【実践編】『聞きにくい』『言いにくい』を解消するには」に続く!】

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