第5回 エドマンド・バークの思想
浜崎洋介(文芸批評家)
ここで言われている「先入観」は、日本語では「偏見」と訳されることもありますが、文脈に沿ってより正確に解釈するなら、英語のprejudice(プレジュディス)、つまり、pre=前もってのjudge=判断を担っている〝力〟のことを指していると考えるべきでしょう。
それは、これまで身体的に馴染まれ、組み合ってきたものとの関係からくる直観、言い換えれば、頭で考えるよりも前に、その関係が自分にとって喜ばしいものなのか、それとも悲しいものなのかを判断する経験的=身体的直観のことを指しています。既存の調和している関係なら――たとえば愛情深い親子関係や友人関係なら――、私たちはそれを考えるよりも前に善きものとして守ろうとするでしょう。が、その反対に、これまで不調和を引き起こしてきた(いる)関係なら――たとえば、いじめっ子や、暴力的な人間との関係なら――、私たちはそれを考えるよりも前に悪いものとして距離を保とうとするでしょう。それがバークの言う、緊急のときにも迷わずにすぐに動き出す「先入観」の力です。
そして、ここで決定的に重要なのが、「長つづきしたものであればあるほど、世に広まったものであればあるほど」、私たちはその「先入観」を愛おしむことになるだろうというバークの言葉、つまり「時効」(prescription/pre=予めのscription=規定)の概念です。
長続きした「先入観」とは、言い換えれば、長く「自然」の風雪に耐え、それでも残ってきた善と悪の認識のことです。そんな「時効」によって成り立っている価値観のなかには、私たちが自分の頭で考えることのできる時間(五年から十年程度の時間的スパン)を遥かに越えた喜びと悲しみの歴史が、言い換えれば、四、五百年単位で形成されてきた民族の記憶が溶かし込まれていると考えていいでしょう。そこには、私たちの任意の視点や有限な理性(計算)によっては測り知ることのできない、数限りない成功と失敗の経験が含まれているのです。つまり、それが長続きしたものであればあるほど、今、目の前に現れている〈先入観=善と悪の価値規範〉が示しているのは、無数の差異や矛盾に晒されてもなお揺るがなかった民族の「生き方」、個人の思い付きやルサンチマン、あるいは、イデオロギーや思い込みなどによって改変されることのなかった「叡智」だと言うことができるのです。
しかし、ここで注意しておきたいのは、だからといってバークが、単に「理性」を否定して、「先入観」を盲信すればいいなどとは一言も言っていないことです。過去の「先入観」のなかには、たしかに現代の必要と調和しなくなった迷信や、修正すべき悪癖が含まれていることもあるでしょう。いや、だからこそバークは、「先入観のなかに生きている潜在的な叡智を掘り出すために知恵をめぐらせ」よと言うのです。飽くまで重要なのは、単なる記号的――「英国王室」や「ウェストミンスター寺院」、あるいは日本的文脈で言えば「天皇」や「靖国」などの〝記号〟――なのではなくて、それらの記号が象徴している民族の記憶、つまり、われわれの内において働いている〈潜在的な叡智=歴史的平衡感覚〉なのです。
そして、そんな私たちの〈潜在的叡智=歴史的平衡感覚〉を探り出し、それによって目の前の記号を解釈し直し、伝統に命を吹き込むためには、やはり、調和と不調和との距離を測り、それを反省することのできる「理性」が必要でしょう。「最小の動揺と最大の連続性」がどこにあるのかを直観し、それを調整する手段を考え、そのための道具や仕掛けを作り出すこと、つまり、「裸の理性」を「先入観」の衣で包み込み、それによって「保存と修正」を為していくこと、ここにエドマンド・バークの保守的態度が、言い換えれば、保守思想の原型が見出されることになります。
Ⅲ エドマンド・バークの倫理――「漸進主義」と「自然の信仰」
それでも、バークが擁護しているものが、飽くまで「理性をふくむ先入観」であって、〈先入観を排した理性〉ではないことについては、再び注意しておく必要があります。
実際、バークも言うように〈先入観なき理性〉だけでは――つまり、〈反省と計算〉だけでは、私たちは永遠に何も決断できないのみならず、行動にさえ踏み出すことができないのです。反省すべき過去は無限であり、計算すべき未来も無限である以上、決断しなくてはならないときにためらい、疑ってはならないところで疑い、困惑してはならないところで困惑してしまうのは、「先入観」ではなく、常に「理性」の方なのです。しかし、だからこそ私たちは、反省を切断し、計算をなげうつことのできる手応えを求めているのではなかったでしょうか。不十分な知識を不十分なままに信頼し、私たちの決断を促すことのできるものを把握すること、それこそが、バークの語る〈先入観=伝統の力〉の自覚でした。

しかし、それは逆に言えば、〈先入観=伝統の力〉を排して、〈理性=反省と計算〉だけで行動しようとすると、そこには、必ず恣意的な暴力が入り込んでしまうことを意味しています。有限な「理性」が、自分一人の手で全体を調整しようとすれば、そこに現れるのは必ず、その人の「理性」を中心とした主観的でエゴイスティックな全体性――全体性の仮面をかぶったナルシスティックな妄想体系(偽の全体性)――であるよりほかはありません。
事実、十八世紀末のフランス革命も、二十世紀の共産革命も、それらの「革命」が最終的に行きついたのは、「自由と理性の女神」の無理矢理の虚構(エベール考案)であり、「最高存在の祭典」(ロベスピエール考案)であり、さらに言えば、特定の個人(書記長や党首)を神のように崇め奉る独裁体制(ソ連、中国共産党、北朝鮮など)の建設だったのです。
したがって、だからこそ、「理性による革命」ではなく、「自然な変化」を受け入れる保守思想において重要なのは、社会秩序の「根幹」と「枝葉」とを見分ける成熟した眼であり、理性の可謬性に対する適切な恐れであり、変革の結果に対する慎重な配慮だったのです。
「名誉革命の時代もいまも、わたしたちは自分が所有するすべてのものを先祖からの遺産としたいと願ってきました。ですから遺産の幹や親株のうえに、原木の自然な性質とあわない異質な接ぎ木などしないように注意をはらってきたのです。」
「わたしは変更を加えることをまったく否定するわけではありません。ただ変更するなら、そのものを保存するためになされるべきなのです。
大きな苦情の種があれば、是正するために対策が必要になるでしょう。しかしそのときでも先祖の実例にみならうべきでしょう。変更を加える場合、わたしなら建物を修復するような仕方でおこなうでしょう。わたしたちの祖先は断固とした行動をとるときも、賢明な注意深さ、慎重な配慮、体質的というより道徳的な臆病さを守ることを指導原理にしてきました。わたしの国の祖先は、フランスの紳士たちがおおいに恩恵をこうむっていると誇らしげに語っている啓蒙の光に照らされていなかったので、人間とは無知で誤りやすい生き物だという印象をもって行動したのです。人間をこれほど誤りやすい存在に造った神は、かれらがこうした人間の自然な本性に注意深く行動したことを祝福したのです。」(同前)