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連載

保守思想入門

第5回 エドマンド・バークの思想

浜崎洋介(文芸批評家)

 ここから、保守思想における「漸進主義」が生まれてくることは容易に想像がつくでしょう。ただ、ここでの「漸進主義」は、「急進主義」と比較したり、その比較によって選択したりする概念ではありません。というのも、この「漸進主義」によって示されているのは、誰一人として〈先祖からの遺産=歴史〉の外には立てないという認識だからです。
 だとすれば、社会秩序の「変更」は、その有機体の内部から部分的に試みていくしかないでしょう。それを超えて全体的な変革を導こうとすれば、そこには必ず何かしらの無理や、歪みや、暴力が伴うことになります。だからこそ「変更」は、社会を上から見下ろしたイデオロギー的言説(コミュニズムやリベラリズムなどの〝イズム〟)や、あるいは、外国を手本とした指導的言説(鹿鳴館主義やグローバリズム)によってではなく、自分たちの歴史を導いてきた過去と、状況によって変化する社会的必要との関係、つまり、「原木の自然な性質」と、それと馴染む「接ぎ木」との関係によって議論されるべきなのです。 
 それなら、保守思想の核心にあるものは、その組み合わせを可能にしている「自然」への信頼、言い換えれば、先祖と自分と子孫とを結びつけ、それらを一つの有機体=国家として纏め上げているところの「自然」への信仰だと言うことになります。

「この永遠の身体〔自然の秩序のなかに与えられている国家の身体〕のなかでは巨大な叡智のはたらきによって、人類という種の壮大で神秘的な結合体がかたちづくられ、その全体が、同時に老年であることも、中年であることも、青年であることもなく、普遍の恒常性をそなえながら、衰退や没落、恢復と進歩という豊かな流れをたどって動いていくのです。わたしたちはこうして自然の手法を国家の行動のうちに維持することで、改善をおこないながらもそこに新奇さだけが満ちるということは決してなく、また維持することが退化するだけに終わってしまうこともありません。
 このような方法と原理にもとづき父祖にならい歩むことによって、わたしたちは古さを愛玩するような人たちの迷信とは違う、哲学的なアナロジーの精神に導かれているのです。この世襲の原理を選びとることで、わたしたちはみずからの政治的な枠組みに血のつながりをあたえたといえるでしょう。憲法を最愛の家族の絆として結びつけ、国の基本の法律を家族愛の懐に抱き入れて、国家と家庭と墓地〔先祖〕と祭壇〔宗教〕を不可分なものとして維持しつつ、それらすべてが結合されて照らしあい、博愛のぬくもりで慈しまれるようにしてきたのです。」(同前)

 ここに、「自然」に即して制度を作為しようとする態度、つまり、「国家」の内に「自然」のリズムを導き入れようとするエドマンド・バークの態度が導かれることになります。
 いや、そもそも「自然」の一部として生まれ落ちた人間において、その営みを無理矢理、「自然」(手付かずの野生)と「作為」(人工的で虚構的な制度)とに分けなければ納得しないという態度の方が、最終的には不自然なものだと言うべきでしょう。しかし、それなら、人為的な制度を「自然」のリズムに一致させようと努力する保守思想とは、要するに、「不調和」となっている人間と環境との関係を再び「調和」へと――他者と共に共有している空間の調和、そして、先祖や子孫たちと共有している時間の調和へと――導こうとする有機体の努力そのものだと言った方が適切かもしれません。
 そして、その努力を促している力もまた、私たちの意識を超えて私たちに贈り届けられている内なる「自然」の力なのだとすれば、その「自然」を信じるほかに、私たちが「調和」を受けとる術はないと言うべきなのです。自分をも含めた「自然」に対する畏怖と感謝、そして、それに従った適切な自己調整、それが保守思想の倫理だということになります。
 さて、ここまでエドマンド・バークの言葉に沿って、保守思想の基本的枠組みを描いてきましたが、実は、その「先入観」(prejudice /pre=前もってのjudge=判断)の思想にしても、「時効」(prescription/pre=予めのscription=規定)の思想にしても、「理性の限界」や「漸進主義」、あるいは「自然の信仰」にしても、それらの考え方は、かたちを変えて、再び二十世紀の現代思想のなかに蘇ってくることになります。理性主義と進歩主義と自由主義とが大手を振った十九世紀、「保守思想」は単なる「保守反動」として退けられることが多かったのですが――今でも、その名残はありますが――、しかし、その自由と進歩のどん詰まりで、私たちは、再び私たちの「自然」につき当たることになるのです。
 が、すでに紙幅も尽きてしまいました。次回以降、論は大きく転回し、十八世紀末のバークによって唱えられた〈近代への疑惑〉が、十九世紀を通って、二十世紀の現代思想――ベルクソンやハイデガーやウィトゲンシュタインなど――によって煮詰められ、深化していく過程を見届けておきたいと思います。もちろん、彼らが、自覚的な保守思想家だったと言う気はありません。が、そこで語られた主題が、エドマンド・バークの言葉と矛盾するものでなかったこともまた事実なのです。そして、そのことが確認されたとき、ようやく「保守思想」は、単なる保守反動の言説――反サヨクの言説としてではなく、人間の「自然」に対する一つの自立的な思想=生き方として論じ直すこともできるようになるでしょう。
 その上で本論は、改めて「日本の伝統」についても議論したいと考えています。

著者情報

文芸批評家

浜崎洋介

はまさき ようすけ

1978年埼玉生まれ。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。京都大学大学院特定准教授。2022年『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)で、第31回山本七平賞奨励賞受賞。そのほかの著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉イロニー・演技・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文藝春秋)、『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(NHK出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』『日本人の「作法」 その高貴さと卑小さについて』(いずれもビジネス社)がある。

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