第12回 生まれてきて、よかった?(前編)
川口好美(文芸批評家)

終末論が生まれるワケ
キリスト教には古くから、〝再臨(さいりん)〟という考え方がありました。立場によって様々な捉え方があるのですが、ざっくりと、最大公約数をお伝えします。
再臨というのは、イエス・キリスト(救世主イエスという意味です)が、世界の終わりの日に〝再〟びこの世に〝臨〟む、ということです。十字架刑に処され、殺害されたイエスが、世界を救い、神の国を打ち立てるために、天から地上へ戻ってくる。そこで、善人は永遠の生命を得るが、逆に悪人は厳しい裁きを受けて、永遠の苦悩に追いやられる……という感じです。最後の審判、ということばで知っている人も、いるかもしれませんね。
そう、再臨も、終末論と呼ばれる、〝終末〟にかかわる信仰の一種なのです。
キリスト教以外の一神教であるユダヤ教とイスラム教にも、それぞれの終末論があります。なぜ、そのようなものが求められたのでしょうか。
こんな想像をしてみてください。片方に、神のことばを信じ、神が定めた決まり(律法といいます)を真面目に守って生きている人たちがいるとします。もう片方に、神なんか信じず、欲望のまま、好き放題に生きている人たちがいるとします。真面目な人たちは、何をやってもうまくいきません。天災や飢饉が発生したり、感染症が大流行したり。不真面目な人たちには、そのようなことは起こりません。その上、不真面目な人たちが、真面目な人たちを襲って領地を奪い、彼らを奴隷にしたとしましょう。
これは、わかりやすくするために単純化した、かなり極端な想像です。こんなに酷いことは滅多に起こらないかもしれません。だとしても、どれだけ真面目にやっても報われないことがありますし、不真面目でもなぜか物事が都合よく進むことって、ありますよね。真面目な人たちは、〝今すぐ神があらわれて、この苦境から脱する手助けをしてほしい〟と望むはずです。でももし、祈りが届かず、神が助けてくれなかったら、どのようにして辛い状況を耐えしのげばよいでしょうか。
今はあらわれないけれど、〝終末〟に、さいごのさいごに、きっと神があらわれて、圧倒的な変化が生じるに違いない。そのタイミングで、真面目に神を信じて生きた人間と、そうではない人間が区別され、正しい者には幸福が、正しくない者には不幸が、きちんと振り分けられるはずだ。このように信じることで、なんとか自分を納得させるのではないでしょうか。
〝絶望〟についての回で取り上げた、「ヨブ記」のことも思い出してください。多くの人が、正しいはずの行いや生き方が報われないと、深刻な悩みにとらえられます。心の中で何度も、〝ナゼだ!?〟と叫びます。わたしも、母の病気で困り果てた際には、〝もしも神様がいるなら……〟と、時々考えることがありました。信仰心なんて、まったく持っていなかったにもかかわらずです。たぶん人間って、正義にすごく敏感な生き物なんですよね。この〝ナゼだ!?〟に答えるために、人間が作り出した、スケールの大きい物語。それが終末論なのだと思います。