第2回 序章「保守思想」とは何か~「伝統」と「実践知」について
浜崎洋介(文芸批評家)
十七世紀という時代は、シェイクスピアが、ハムレットに「この世の関節がはずれてしまったのだ」(『ハムレット』一六〇一年、福田恆存訳、新潮文庫)と語らせ、詩人のジョン・ダンが「宇宙のあらゆる関節が、残らずばらばらに外れたのだ」(「一周忌の歌―この世の解剖」一六一一年、湯浅信之訳、岩波文庫)と歌っていた時代、つまり、長引く宗教戦争の混乱によって、ヨーロッパにおける「摂理への信仰」が凋落してしまった時代でした。そして、その動揺する宗教共同体の不安、あるいは、その凋落してしまった「摂理」の穴を埋め合わせるようにして呼び出されてきた思想、それが、宗教共同体から切り離された知性を寿ぐためのイデオロギー、つまり、伝統を脱ぎ棄てた裸の個人に自律性を与えるために見出された理性主義、科学革命を媒介として一般化された現代合理主義の「技術知」だったのです。
しかし、「技術知」は「技術知」だけで自律できるものなのでしょうか? あるいは、「技術知」は、本当に私たちの信仰の穴を埋め合わすことができるものなのでしょうか?
その問いの延長線上に遅れて現れてくるもの、それこそが、オークショットの言うところの「実践知」であり、小林秀雄の語っていた「直感力」にほかなりません。それは、身体を伴った経験によってのみ培われる「暗黙知」(マイケル・ポランニー)であり、時と所と立場によって変化する個別具体的な状況への洞察力と適応力を孕んだ無意識の力でした。(註1)
Ⅲ「実践知」の射程——先入観と伝統感覚
ここで「実践知」についての詳細を議論する余裕はありませんが、少なくとも、その大枠を理解するために、オークショットが挙げている例を少しだけ見ておくことにしましょう。
オークショットは、特に「実践知」が必要とされる領域として、料理、絵画、音楽、詩、宗教、政治、医療、そして、イデオロギーとは無縁の真に科学的な活動などを挙げていましたが、ここでは、最も分かりやすい例として「料理」を取り上げることにしましょう。
言うまでもなく、料理についての知識は、本に書かれているレシピ(マニュアル)に尽くせるものではありません。最もシンプルなパスタ料理(たとえばペペロンチーノなど)を作るにしても、そこで使うパスタやオリーブオイルや塩の種類は無数に存在し、さらに、その原料であるところの小麦やオリーブの品種、あるいは、それらが育った環境(その時と処)までを考え合わせれば、その組み合わせはほとんど無限と言っていいでしょう。いや、パスタを作る道具や、それが使用される環境(厨房や台所の様子)、ガスの火力、その日の天気、そして、何よりもパスタを作る人の性格や機嫌によっても、その味が変わってきてしまうのだとすれば、料理という「実践」を、一般的で明示的なルールや「技術」だけに還元して事足れりとする態度が非現実的なものであるのは誰にでも分かることだと思います。
では、レシピやマニュアルは、放棄しても構わないものなのでしょうか?
そうではないでしょう。私たちは、マニュアル(技術知)を一種の大枠として把握しつつ、そこに無限のニュアンスを実践的に付け加えていくのです。いや、正確には、その反対が正しい。世界に対して無限のニュアンスを付け加えていく「実践知」を信じていればこそ、私たちは、「技術知」に囚われることなく、マニュアルを使いこなすことができるのです。
実際、全ての情報を「技術知」として把握してから料理をしなければならないのだとすれば、私たちは、いつまでたっても実践に踏み出すことができないのみならず、実践に踏み出したところで、終始ぎこちない振る舞いを強いられることになります。要するに、私たちは、〈明示的なルール〉によって生きているのではなく、世界に対する〈馴れ親しみ〉によってこそ生きているのだということです。その盲目的な「先入観」と内なる信頼感、それこそが、マニュアルを超えた「実践」のモメントを創り出しているものなのです。
そして、この「先入観」の擁護という主題において、あのエドマンド・バークとオークショットとの絆が、つまり、保守の「思想」が最も分かりやすく示されることになるのです。

エドマンド・バーク(左)マイケル・オークショット(右)
今度は、エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』から引いておきましょう。
わたしたちは一般に、教育を度外視した感情で動く人間で、自分たちの古くからの先入観をまるごと投げ捨てるどころか、それを心からたいせつにするのです。さらに恥ずかしいことに、まさに先入観であるからこそたいせつにします。それもその先入観が長つづきしたものであればあるほど、世に広まったものであればあるほど、いとおしむのです。〔中略〕わたしの国の思想家の多くはこうした一般的な先入観を否定せず、先入見のなかに生きている潜在的な叡智を掘り出すために知恵をめぐらせます。そして探していたものを見つけても(失敗することはまずないのですが)、先入観の衣を捨ててそのなかの裸の理性だけを取り出したりはしません。内側に理性をふくませながら先入観を維持するほうが望ましいと考えるのです。というのも理性をふくむ先入観は理性に行動を起こさせる動機になりますし、そこにふくまれている愛情によって永続するものになるからです。
緊急のときにも先入観はすぐに動き出します。先入観は精神を、叡智と徳のしっかりした道へと向かわせるのです。そして決断すべき瞬間に人をためらわせたり、疑わせたり、困惑させたりしません。決断しないままにもさせません。先入観があることでその人の徳は習慣になり、その人の義務は本人にとって自然な本性の一部になるのです。(『フランス革命についての省察』二木麻里訳、光文社古典新訳文庫)