第2回 序章「保守思想」とは何か~「伝統」と「実践知」について
浜崎洋介(文芸批評家)
この引用を注意深く読めば分かると思いますが、バークは決して「理性」を否定しているわけではありません。ただ、「先入観」の衣によって包まれていない「裸の理性」だけでは、行為には踏み出せないと言っているだけです。まさに「実践知」(経験)抜きの「技術知」(マニュアル)が使いものにならないように、「先入観」抜きの「理性」もまた、「決断」を前に、分析と反省を繰り返すばかりで、行為に踏み出せなくなってしまうのです。
と同時に、バークが語る「先入観」が、小林秀雄の語っていた「直感力」とも似た響きを持っていることにも注意してください。「先入観」ぬきに私たちが適切に行動できないのと同じように、「直感力」なしに目の前の作品の良し悪しが分からなくなってしまうことはもちろん、自分にとって何が良いもの(調和)で、何が悪いもの(不調和)なのかさえ分からなくなくなってしまうのです。ちなみに、この作品を前にした「直感」の議論は、マルティン・ハイデガーが論じることになる「先(せん)了解」や「解釈学的循環」の議論とも正確に響き合っています(拙著『小林秀雄の「人生」論』NHK出版新書、参照)。
しかし、それなら、私たちの「生」は、つねにすでに私たちの意識を超えて、ある文脈において方向づけられている(先入観が与えられている)ということなのでしょうか?
そうなのです。私たちの認識が「規則」を超えた「生活形式」(ウィトゲンシュタイン)によって支えられているのと同じように、私たちの「生」は、「技術知」を超えた「実践知」の積み重ねによって、つまり、与えられた伝統によって支えられているのです。
とすれば、もうお分かりだと思いますが、保守思想を何か特別なイデオロギーとして語ることは間違っています。私たちが生きている現場に沿って、その「生」の経験と矛盾しないように言葉を組み立てていくこと——だから保守思想は、「素直さ」と「正直さ」、そして「常識」というものを何よりも徳としてきたのでした——、そして、その結果として現れてくるもののなかに適切に自分を位置づけること、つまり、個人を制約し、またそれを支えている歴史と自然のなかに自己の生き方(調和と不調和の感じ方)を見出すこと、その営みにおいてこそ、保守思想の輪郭は形(かたち)づくられてきたのでした。
さて、保守思想への助走は、もうこれくらいでいいでしょう。次回からは、保守思想が「敵」としてきたイデオロギーと、それに対するバークなどの反応を確認すると共に、さらに、今回お話しした「先入観」や「直観」についての議論を、啓蒙合理主義に対する批判的な思想系譜——特に二十世紀における近代批判の思想的営みを媒介としながら——において論理的に基礎づける作業へと入っていきましょう。その上で、伝統の切断によって成り立った近代日本の経験や、その「大衆性」を増していく現代日本の問題についても論じたいと考えています。それなりに長い連載になりそうですが、お付き合いいただければ幸いです。